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 電器会社を《早期退職》してから、約20年、塾経営と高校での非常勤講師をやってきた。うち10年ほどは何かと並行している。ここでは塾の思い出や考え方、敗戦・反省記を書いてみたい。
同じ人間のやることだから、農業も共通の考え方で取り組んでiいるはずだ。

1.基本方針 (勤務していた会社の影響で、基本方針がないと落ち着かない) 

 「香里塾」では,「教育は思いやり」を基本方針とし,
能力よりも努力を信じてがんばる生徒」をどこまでも応援したいと思っています。

 教育とは「人を導き育てる」ことであり,それには「思いやり」が最も大切になってきます。
機械的に「ただ成績を上げれば良い,合格させれば良い」というものではありません。
成績が良くても,良い学校に入っても,「思いやりのない人間」は世の中を良くすることはできません。
「エリートが非エリートをクイモノにする」世の中であってはならないのです。
私は「思いやり」を持って,「思いやりのある人間」を育てたいと思います。

 人間の能力はさまざまです。100mを10秒足らずで走る人,30分かかる人。
10秒で走る人は9秒に縮める努力を,30分かかる人は25分,20分と縮める努力をして欲しいのです。それが無理なら、より楽しく走れるように。
財産となるのは「持って生まれた能力」よりも「努力できるという能力」です。
「結果」よりも「努力できる能力」がその人の財産です。
宝くじで当たった3億円より,自分で稼いだ10万円の方がその人の財産になるのです。

 私の塾では指導方針を決める学力診断テストはしますが,
入塾テストで「できる生徒」だけを入れることはしません。
「できる生徒」は放っておいても勉強し,労せずして塾の宣伝になります。
しかし、世の中はいろいろな人間から成り立っているのだから,
その中でそれぞれの人間の「価値」を認めつつ,自分の目標に向かって進める人間を
育てることに私は生きがいを感じます。

 学生時代は「点数」,世の中に出れば「お金」がものを言うのも確かです。
「点数」がなければ合格できず,「お金」がなければ病気になっても医者にかかれません。
子供が「お父さんお腹が痛いよ」と言ったとき,
「オトウチャン今お金ないねん,我慢してな」とは言えないでしょう。
「たかが点数,されど点数」,「たかがお金、されどお金」です。
ただ、それのみに振り回されているのが現実です。
「自分にとって何が幸せか」を考え,それに向かって「自分なりの努力」をして欲しいと思います。
 私自身,年の割にかなり未熟ですが,生徒とともに学んでいきたいと思っています。

2.教室

 
 教室は自宅の1教室から始め、多いときで3教室あった。が、良い講師の確保が難しく、農業の仕事も忙しくなったので、最終的にはこの2教室になった。左は親父の敷地に借金して建てたもの。のちに塾の教室を探している若者に貸した。右の教室は借り物で、伯母さんが大家さん。1階は伯母さんのご好意で《QOLポケット市》を開き、有機・無農薬を目指す仲間と農産物を直販していました。塾を閉める直前には、この教室だけ残して最後の生徒まで指導した。塾も農業も,QOL(クオリティー・オブ・ライフ)つまり,「生活の質・生命の質を高める」というテーマで取り組んだつもりです。

3.敗戦の理由

 私が塾を継続できなくなった(耐えられなくなった)理由は世の中や教育環境の変化の他、
私の性格や考え方によるところも大きいと思う。以下の文は塾から撤退しようと決心した2002年ごろに書いたものです。

1.教育環境の悪化
 《ゆとり教育》が言われだしてからの《学力低下》には目に余るものがあります。それにとどまらず《人間性低下》も見られます。学習項目を減らす新指導要綱には反対です。《ゆとり》だ、《生きる力》だともっともらしいことを言っていますが、甘えん坊や怠け者を作る結果になるでしょう。これだけオカシクなっているのにまだ勉強時間を減らすというのでしょうか?基礎学力なくして独創力、創造力もありません。不得手なことでもそれなりに努力することが大切です。
 得意なところで実力が発揮できない、評価されない、足を引っ張られるのはもっと悲惨です。例えば、勉強ができなくて走りが得意な生徒がいたとします。運動会で晴れ姿を披露しようと思っていたら、みんなお手々つないでゴールイン。
 無理をさせない、生徒がわからないのは先生のせいだ、教科書のせいだと言う。自分の努力を棚に上げて人に責任転嫁するのはやめましょう。世の中に迎合することなく、自分の信念で教育していきたいと思います。それが受け入れられないのなら私が塾をやっていく意味はなくなると考えています。日本を三流国にしたくはありません。
 父兄も、信じられないことを言う人が増えてきたように思います。学校は高校しか教えに行ったことはありませんが、教師の質が落ちていっています。ペーパーテストを通っただけの人間的に未成熟な教師、最低の知識・学力すらない教師。生徒より先に教師に説教しなければならないのは悲しいことです。校長や教頭のことは言わないでおきます。

2.私の性格
 私は度量が狭く、大きな心で人を見ることが苦手です。はじめは理解力の遅い子をもてあましていました。「何で分かれへんねやろ」と。だんだんいろんな生徒を見ることができるようになりましたが、《自分の能力に合った努力もできない生徒》は最後まで扱えませんでした。「努力ができるのも才能だ」と家内は言い、そんな生徒は家内が引き受けてくれました。私の知らない世界の子どもたちやその父兄をうまく扱う家内に尊敬の念を持ちました。家庭教師が終わった後も、強い絆で結ばれているようです。裏切られることも多かったですが。
 ただ、非常勤講師をしていた高校の中には暴力的な生徒もおり、学校では「身の危険さえなければ幸せ、それ以上何を望むのか」と思ったこともあります。生徒や父兄のわがまま勝手や横暴はこれから先、間違いなくエスカレートしていくはずです。
 ベビーブーマーは分からないと置いて行かれました。私自身は、分からないのは自分が悪いのだと思っていました。会社時代もまず自分の能力を恥じ、自分を責めるようにしていました。思えば技術者・研究者の世界というのは、特殊な世界だったのです。その経験は教育の世界や農業の世界ではむしろマイナスになることも多いのではないかと思います。
 こんな私の性格では、これから先の生徒や父兄に到底合わせて行けないと悟りました。だんだん苦しくなるのを我慢するより、農業で活路を見出したほうが精神衛生上良いのではないかと。

3.経営の失敗
 私の性格から、家内は守備範囲内のせいぜい数十人の生徒を一人で教えたほうが良いとアドバイスしてくれました。が、生徒が増えるにつれて欲が出て、田舎であってもできるだけ優秀な講師を集めようとしました。講師の給料が経営を圧迫し、給料を払うために塾に合わない生徒まで入れる羽目になりました。守備範囲を広げすぎたということです。
 優秀な講師、必ずしもお金に結びつかず。仕事はお金だけではないとはいえ、現実には商売を忘れてしまっては事業は続きません。人を巻き込むときは自分の信念や理想だけではやっていけないことを遅まきながら知りました。遅すぎました。
 また、私は凝り性ですから、小1から高3までの算数・数学、中学の理科・英語、について独自のテキストを作り、しかも改訂を繰り返しました。高校英語の解説書なども。一斉授業では物足りない、あるいは、理解できない生徒のために個人別で進められるレベル別テキストを作ろうとしたのです。ワープロでの作成が間に合わないときはワープロ作成の外注もしました。印刷機械代や消耗品代も経営を圧迫しました。
 結局、自分の能力は一部把握していたものの、自分の度量や器が全く把握できず、背伸びをしてしまったということでしょう。経済的にではなく、自分の理想を欲張ったのでしょう。これが成功しておれば《結果オーライ》になります。あるいは都会ならこのやり方でも成功したかもしれません。実際危なっかしい大手の塾も多いと思います。成功か失敗かは運にもよります。

教育「直語」

 ここは教育について本音を率直に語り合うコーナーです。私の本音の他,著名な方の言われたこと,投稿されたご意見も載せますので,どんどんご投稿下さい。「相田みつを」風の詩でも結構です。
 本物の「教育勅語」は1948年、つまり私の生まれた年に廃止になりました。
これからは自分たちが教育の基本方針を作り上げていかなければなりません。
このコーナーは勝手なことを,しかし真剣に書いています。1つでも「ズシッ」と来るものがあれば成功です。
[注]は他の方の言葉に私が「私見」を加えたものです。


 蒔かぬ種が生えるのが奇跡。
 蒔いた種が生えるのが正しい信仰。

 何もしないでご利益だけ求めるな。
 自分で行動しなければ何も得られることはない。

 蒔かぬ種は生えぬ。
 蒔いた種は自分で刈り取らねばならぬ。

 原因がなければ結果は出ない。
 原因を作ったのなら結果に責任を持て。
 この頃はこんな人間が珍しくなりました。

 せっかく生まれてきたんだから、そんなに怒らないでよ。

 いつもガミガミ怒る母親に言った、3歳児の言葉。

 育てたように子は育つ。思うようには育たない。

 「こんな子に育てた覚えはない」とよく言われます。
 が,親を見ると「この親に育てられるとこうなるのか」と納得することが多い。
 あなたがそのように育てたのでしょう?
 サルのように育てながら人間の子に育てというほうが無理なのです。
 相田みつをの本に前半の言葉が載っていましたが,「パクリ」ではありません。

 「子は親の鏡」ドロシー・ロー・ノルトより

 けなされて育つと,子供は人をけなすようになる。

 とげとげした家庭で育つと,子供は乱暴になる。

 不安な気持ちで育てると,子供も不安になる。

 「かわいそうな子だ」と言って育てると,子供はみじめな気持ちになる。

 子供を馬鹿にすると,引っ込み思案な子になる。

 親が他人をうらやんでばかりいると,子供も人をうらやむようになる。 

 叱りつけてばかりいると,子供は「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう。

 励ましてあげれば,子供は自信を持つようになる。

 広い心で接すれば,キレル子にならない。

 ほめてあげれば,子供は明るい子に育つ。

 愛してあげれば,「人を愛すること」を学ぶ。

 認めてあげれば,子供は自分が好きになる。

 見つめてあげれば,子供はがんばり屋になる。

 分かち合うことを教えれば,子供は思いやりを学ぶ。

 親が正直であれば,子供は正直であることの大切さを知る。

 子供に公平であれば,子供は正義感のある子に育つ。

 やさしく、思いやりをもって育てれば,子供はやさしい子に育つ。

 守ってあげれば,子供は強い子に育つ。

 和気あいあいとした家庭で育てば,
  子供はこの世はいいところだと思えるようになる。

 上の,「育てたように子は育つ。思うようには育たない。」を具体的に書いたものだと言えます。
 地方新聞の「声」欄に載っていたのが目にとまり,拝借しました。
 著作権の問題もあるでしょうが,「良い子に育って欲しい」というのが著者の願いなら,
 あらゆる場でこの言葉を広めるのが著者の意に添うものと考えます。

 福沢諭吉の言葉より

 人生において,一番楽しく立派なことは,一生涯を貫く仕事があること。

 人生において,一番さびしいことは、することがないこと。

 人生において,一番みじめなことは、人間としての教養がないこと。

 人生において,一番みにくいことは、他人の生活をうらやむこと。

 人生において,一番尊いことは,奉仕して恩に着せないこと。

 人生において,一番美しいことは,すべてのものに愛情を持つこと。 

 人生において,一番悲しいことは,うそをつくこと。

 人生において,一番すばらしいことは,感謝の念を忘れないこと。

 有名な福沢諭吉の言葉です。これらの「当たり前のこと」が「分からない」「実行できない」のが凡人の常です。
 むしろこれらの言葉に反する人間がのさばり,金儲けをし,人を支配しているのが今の世の中のように思います。
 これらの言葉を理解し,実行できる人は,「この世的」には報われない人生を送ることになります。

 みんな苦しみや悲しみや悩みを持っているんだよ。
 口に出さないけどね。

 このごろ特に,自分だけが恵まれていないと思って,非行に走ったりやけになったりしている人が目立ちます。
 みんなどこか恵まれない部分を持っています。それでもがんばっているのです。
 「自分だけが…」と甘えないこと。

 お母さん,僕を生んでくれてありがとう。
 でも,あなたに育ててもらいたくなかった。

 お母さんが生んでくれなければ僕はこの世には出なかった。
 それはありがたいと思っている。
 しかし、「生みっぱなし」というよりも「悪い例」となるお母さんが増えているように思います。
 子供に「私を反面教師として生きよ」というのでしょうか。
 親を反面教師として生きなければならない子供は不幸です。

 「子供の教育は家内に任せてある」なんて、
 お父さん,仕事と私とどっちが大事?

 お金と私とどっちが大事?

 「子供の教育は家内に任せてある」というお父さんがほとんどです。
 問題が起きると「お前の教育が悪いからだ」。
 あなたにも少なくとも半分は責任があるのですよ。

 お母さんは最後のふるさと。
 あなたは子供が帰って来たい「お母さん」ですか?

 特攻隊の兵士が最後に叫ぶのは「おかあさーん」だそうです。
 人生の指針や進路はお父さんに相談するかもしれないが,
 病気のときや命がかかる究極の段階では「お母さん」が頼りです。
 それに「ふさわしい」お母さんかどうか,もう一度考えてください。

 

 子は親を映す鏡,学校は社会を映す鏡。

 親の姿は子に映る,社会の姿は学校に映る。
 「なんでこんな子に」,「なんでこんな学校に」と嘆く前に大人が身を正すべきです。
 鏡に映った姿だけを直すことはできません。

 

 食いたくない者は食うな。
 お腹をすかせている者はたくさんいる。
 食べたくても食べられない者はたくさんいる。

 「学校崩壊」「教育の崩壊」が叫ばれ,「教育改革」で「どうしたら楽しく学んでもらえるか」が検討されている。
 「多様化」「小人数化」「国際化」「情報化」など、耳当たりの良い言葉が並び,これで良くなると期待されている。
 しかし、器をいくら変えても,中身が,つまり人間が変わらなければ余計に悪くなるだけである。
 今の問題は,生徒をはじめとして,大人たちも甘え,真剣にやってこなかった結果ではないか。
 いくら「レベル」を下げても、はじめから全く取り組む姿勢のない子もいる。
 開発途上国では,勉強したくても学校がない子供たち,仕事をして家計を助けなければならないから
 学校に行けない子供たちがたくさんいる。
 今の学校制度が自分に合わないから勉強してやらないという「ぜいたく,わがまま」をなぜ認めるのか。
 学問をしたくない者のために、なぜ億単位のお金をかけて多くの高校や大学を作るのか。
 それよりも開発途上国に学校を作り,日本人の先生を送りこむ方がずっと利口だ。
 そこでは百万単位のお金で学校が建つからより多くの子供たちが救える。
 教員採用が少ない現在,教育学部志望の学生にとっても希望が出てくる。
 外国に出れば頼りない教師でもしっかりしてくるはずだ。
 世界に「日本ファン」も増え,憲法の「国際平和主義」も実現できる。
  以前テレビで,にんじんを食べない子に「にんじんをすってカレーに入れると食べてくれた」とお母さんが
 得意になって話し,皆が感心しているのを見た。
 「食いたくなければ食うな」となぜ言えないのか。
 甘やかしは親が後で困る以上に,その子が苦しむことになる。
 もっとも、今の化学肥料・農薬で育てた「にんじん」にどれだけの「栄養」があるのか,の問題は残る。

秋山仁 「オロカ者の定義」より 

 努力は報われず,正義は滅びる。
 だけど、
 それでも努力するのが美しい人生だ。

 汗と涙の価値を知らぬまま,
 いい成績が取れたと有頂天になっているやつを,
 オロカ者という。

 自分の思い通りにならないのは他人のせいだと考え,
 厳しく己を律することを忘れた人間を,オロカ者という。

 困難に挑戦せず,
 楽して結果だけを得ようとするやつをオロカ者という。

 大切なのは感受性や思いやり,責任感。
 マークシートの成績だけが唯一の判断基準だと思いこんでいる
 やつをオロカ者という。

 いつまでも生活の姿勢を変えようとせず,
 「自分には適性がない」などと言い訳するやつをオロカ者という。

 不安の原因は自分自身にある。
 それに気づいていながら無為に時を過ごしているやつを
 オロカ者という。

 困難や苦労に立ち向かおうとせず,
 楽に生きることのみに心をかたむけるやつをオロカ者という。

 全ての結果は神様が決める。
 その領域に立ち入ろうとして,無用の心配をするやつを
 オロカ者という。  

 [注]やるだけのことをやって結果は神に任せることを「果報は寝て待て」という。やるべきことをしない者の場合は「アホウは寝て待つ」という。
   秋山先生,無断借用ごめんなさい。先生のお考えを広めたいという気持ちに免じてお許し下さい。

 三日坊主も,122回繰り返せば1年を勤勉に過ごせる。


 道端の看板より

 子供しかるな来た道じゃ。年寄り笑うな行く道じゃ。


 大川隆法「幸福になれない症候群」より

 子供の勉強のできが悪いのは,八割方,
 親の勉強のできが悪かったということが影響している。

 [注]人間には「嫌なことは忘れ,都合の良いことは覚えている」という,すばらしい性質があります。
   自分ができなかったことや苦しんだことは忘れ,「一番を取ったこともある,100点を取ったこともある,
   ほめられたこともある」ならまだしも、「常に一番だった,常に100点だった,いつもほめられた」に変えて
   我が子に伝える親も結構多いのです。自分のことを棚にあげ,子供を責めてどうなるのですか。
   「どうするのがこの子にとって幸せか」,をいっしょに考えてあげたらどうでしょう。
   「歩」は「歩」なりに活かせる道があるのです。

 お母さん,あの髪の毛の黒い人,染めてるの?

 茶髪で、くわえタバコで、携帯電話しながら、車で幼稚園に送っているお母さんに、
 子供がこう話しかけていました。
 子供にとってはお母さん,あなたが世界一の人間なのです。
 何が「正常」なのか,わからなくなった子供たちが増えています。大人だって同じです。
 幼稚園の「先生」も茶髪の「ヤンキー」だったりして…。


 ワシがワシがの「ガ」を捨てて、お陰お陰の「ゲ」で生きよ

 救急救命の馬場先生のせりふ。人を支配しようとせず、「我」を捨てて人を下から支える人間になりましょう。

 すすんでするのが 人の上
 まねしてするのが 人の中
 言われてするのが 人の下
 言われてせぬのが 人の屑(くず)

 熊本の馬刺し屋さんに書いてありました。
 福沢諭吉の言葉なども壁に貼ってありました。
 ご主人によると《パクリ》だそうです。
 私もパクラせていただきました。
 4番目はいわゆる《不作為》ですが、
 このごろはもっとたちの悪いのが多いですね。 

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