文 筆 活 動

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 いつも《恥》と《冷や汗》ばかりかいている私。たまには《もの》も書いてみようと《黒猫ヤマト 問わず語り》という小説に挑戦。2年半のうち、見直しが2年近く。世の中いろんな人がいるから、表現には気を付けなければならない。今、書きたいテーマが3つ4つあるが、《協力出版》という形で出したこの本、印税どころか、元も取れないありさま。まあ、人からねたまれなくてすんだし、結婚25周年記念と考えればよい。今後性懲りもなく小説を書くかもしれないので、ページだけは作っておこう、そして、今までに書いてきた雑文もこの際公開しようと、遅れがちの農作業を気にしつつ作りました。



2013.10 足場パイプで多目的倉庫から鶏小屋まで (初山正己、農文協ー現代農業への寄稿)



 月刊誌現代農業11月号の表紙と私の原稿1〜2ページ。



 同じく3〜6ページ。

































































【おことわり】
1. 私の書いた原稿は編集者が他の記事と統一するためか私に電話確認しながら手直ししている。(できるだけ月刊誌に載った文章にしたが、一部元に戻している。)
2. 《足場パイプ》と《単管パイプ》は同じものである。
3. 原稿中の写真は農文協のカメラマンが撮ったので、ここでは文章だけにしている。


足場(単管)パイプで多目的倉庫から鶏小屋まで

                 和歌山 初山正己


一、廃材を活かし切るのは知的ゲーム

  団塊世代に生まれ、人生を電器メーカーの技術者としてスタート。父が二度目の癌になった時、五十歳で中心となって始めた百姓。 子供のころから農作業を手伝い、少しは農業経験もあったが、若い頃から農業を始めた人たちと同じ土俵では戦えない。 人と違ったことをやる、自分のアイデアを実験する、失敗してもこちらは素人、と開き直った。有機・無農薬を目指し、 1999年HPを立ち上げてネット販売中心の自己満足的百姓人生が始まった。

 親不孝なことに慣行農法の親父とはことごとく対立した。ただ、親父のDNAを確実に受け継いだなと思うのは、自分の頭で考えて行動することと、 金をかけずに他人様が不要になったものなどを有効利用しようとする姿勢。古トタンや廃材などを活かし切るのは知的ゲームだ。 つき合いを広げ、礼を尽くせば色んなものが手に入る。

二、 単管パイプは解体も再利用も簡単
 当初、主に使ったのは8p角位の木の足場材だった。知人の大工さんが不要になったもの。親父の作った鶏小屋の拡張、 納屋の内外の棚など、存分に使った。 十年前、手狭になった鶏小屋を新築する頃には、足場材はほとんど残っていなかった。 不景気で困っていた別の同年輩の大工さんが単管パイプで安く作るから仕事をさせてと言ってきた。 これなら火や水にも強いから用途が広がりそう。しかも単管パイプはクランプと呼ばれる金具で接続するだけで組み立てるから、 簡単に解体できる(失敗してもやり直せる)。 解体した「お古」は繰り返し使える。…私は助手を志願して技術を盗んだ。これが私の単管パイプとの出会い。

三、 長いパイプを切って使う方が安い
 当時三軒あったホームセンターで単管パイプの旧規格品が安く買えた。クランプ、垂木止めクランプ、ジョイントなどの関連部品を箱買い。 グラインダー、インパクトドライバー、ラチェットレンチなどで持っていない工具も揃えた。長いパイプの方がコストパフォーマンスは高い。6mのパイプを切って使うために高速切断機も買った。元は十分取れる。

四、 筋交いで三角形を作って強度を高める
 私は素人であり、実用重視で見栄え軽視。まず簡単なものから作って行き、だんだんにテクニックや工夫を身につけていった。 建築現場の職人さんの仕事ぶりやTV番組《大改造!!劇的ビフォーアフター》などを好んで見る。《学は真似ぶ》。 まず真似て、それから自分の色を出せばよい。これから単管パイプを使ってみようという方に私から 一つだけアドバイスするとすれば、《素人にとって筋交いが強い味方》ということ。 ご存じのように筋交いは斜めに入れて《三角形》を作るもので、強度を高めることができる。 できるだけ長いパイプで大きな三角形を作るのがポイント。素人の強度チェックは《揺すってみること》。

五、 こんなもの作った

(多目的倉庫)

 写真はミカン園のモノラック車庫を兼ねた多目的倉庫で、斜めに入れた単管パイプが筋交いだ。作業中、頭をぶつけないように気をつけて配置した。 屋根の下には風でトタンがあおられないように板をつけた。傾斜地なので念のため後ろの晩柑に防鳥ネットを張るパイプを付け加えて補強した。

(広さ10u以内の鶏小屋)

 十年前に鶏小屋を単管パイプで造ったが、高速道路関連で立退きになったため、三年前に自分で設計施工した。 今回は山の中で、タヌキ・アライグマ対策、鳥インフルエンザ対策、加えて建築基準法なども考慮に入れなければならなくなった。 建築基準法の制限により一つ一つの鶏舎は10u以内狭くなっているが、やはり筋交いを多用し、止まり木を工夫して空間をフル活用させている。
 鶏舎の周りは鳥獣よけのフェンスで囲った。ちょっと高価な金網を2枚のワイヤメッシュで挟んでいる。 完成するのに家族総出で約3カ月。あとは一人で細かい修正・修理を加えた。

(焼却炉)

 梅・ミカンなどの剪定枝や防風林を整理した枝を燃やすため、三か所の畑に焼却炉を設け、消防署に登録している。単管パイプで枠を作り、古いトタンで囲った。 トタンは1年半くらいで交換。

(製作中のキウイ棚)
 スモモと違ってキウイは自分の枝で支えられないから、棚に負担がかかる。そこで単管パイプで大まかな骨組みをし、農業用パイプを通そうとした。 向こうに小屋や焼却炉も準備しているが、まだ未完成。

 【囲み記事=単管パイプで小屋を造る時の注意点】
 何よりも注意してほしいのは建築基準法などの法律。単管パイプであっても小屋を建てるときは建築確認申請が必要だが、10uのものは不要とのこと。 せっかく建てた小屋を撤去させられたケース、協力してくれた大工さんなどに迷惑がかかったケースもある。目立つものを建てるときは一応、県や市に相談して下さい。

2005.02 黒猫ヤマト 問わず語り(衣刀 正、文芸社)

 はじめまして。ヤマトです。
ワタシの《おいたち》から始まって、家族や世間について素直な心で見、聞き、語ってきたことがいよいよ本になりました。

 これがその本。
確かにワタシが表紙になっているでしょう?

 本屋さんに並んでいる様子です。
オトウサンとオカアサンは《印税》の使い道をめぐって、白熱の議論をしていました。
が、杞憂に終わりました。
《印税》どころか、協力出版にかかった費用の1パーセントも返ってきていません。
お陰様で、世間からねたまれることもありませんでした。

 地元新聞など4誌に紹介され、それを見て買って下さった方もいます。
まとめて買って、配ってくれた方も。感謝感謝です。
目次
はじめに
第1話おいたち
第2話マイファミリー
    …人物編
第3話マイファミリー
    …動物編
第4話ペット積み立て
第5話名付け魔
第6話人間の言葉が
    なぜわかる?
第7話我が家の探検
第8話資産家の猫
第9話美貌の秘訣
第10話ヤマト姫
第11話猫は怠け者か
第12話ラック姉ちゃん
     の前世?
第13話セクハラ次郎
第14話ボランティアと
     ミーちゃん
第15話変人トウサン
第16話オトウサンの
     悩みと対策
第17話不思議な
     カアサン
第18話オトウサンと
     オカアサンの
     相性
第19話ボラ子の話
第20話狩り自慢
第21話ネズミ捕り競争
第22話ブタ犬ジュニア
第23話犬小屋
第24話ヒゲ先生
第25話ニワトリに関
     する一考察
第26話恐るべし、
     カラス
第27話《食》への
     こだわり
おわりに
 …拝啓人間様












































































































































[はじめに]

 ワタシがこの家に来てから、かれこれ一年半を過ぎようとしている。漱石の猫には名前がなかったが、ワタシにはれっきとした名前がある。《ヤマト》という。ただ、出生についてはベールに包まれたままだ。生誕地、生年月日、両親の名前など、いまだ不詳である。神秘性も魅力のひとつと言えなくもない。が、自らの素性をもう少し知っておきたいのも偽らざる気持ちだ。オトウサンの影響で《変わった猫》、オカアサンの影響で《天然ボケ》とも言われている。

 飼い主であるオトウサンはもともと名前にこだわる人間だ。息子三人の名前は生まれる半年以上前から時間をかけて考え抜き、ペットの名前や飼っているニワトリなどの名前にまで凝る。なのに、今回は《黒猫》だから《ヤマト》とあまりにも安易につけたようだ。でも、誰がなんと言おうと、ワタシはこの名前が結構気に入っている。宅急便のようだとか、男の子の名前のようだとの声も耳にする。宅急便はその通り、《パクリ》だ。ウチでは農作物をインターネットで直販していて、《クロネコヤマト》はよく利用している。いわばお得意様だし、会社のイメージを高めこそすれ、損害を与えることはないから、商標権の侵害だ何だと野暮なことは言わないはずだ。裁判になったら受けてやる。

 ちょっと昔なら《タンゴ》となっていたかもしれない。が、《クロネコのタンゴ》を知っている人は少なくなった。今なら《ヤマト》のほうが通りはいい。
 しかし、男の子の名前のようだと言われることにはちと抵抗がある。《大和撫子》や《倭姫》というのもあるではないか。ワタシは気にしていない。普段は「ヤマ」とか「ヤマちゃん」とか呼ばれる。動物病院では「衣刀ヤマトちゃん」と敬称つきフルネームだ。

 この家やまわりの環境にも慣れ、生活も安定してきた今、過ぎ去りし激動の日々を思い起こす精神的な余裕も出てきた。ここら辺でちょっと振り返ってみるのもあながち意味のないことではない。おしゃべり好きとはいえ、気まぐれな猫のことだ。一度に長くは語れない。言葉や表現が不適切なこともある。すぐに横道にそれる。興奮すると攻撃的で過激な発言も出る。持ち前のサービス精神から、多少の誇張や作り話も入るかもしれない。あくまでもわがままでおしゃべりなメス猫の語るフィクションだ。最も心配しているのは、オトウサンの性格を受け継いで、言わなくてもいいことまで言ってしまうことだ。よくいえば素直で純粋ということ。相手を傷つける気持ちは毛頭ない。そもそもワタシは気に入らない人間ははじめから相手にしない。猫の特性だ。時々ちょっと難しい話に入ることもある。が、すぐに肩のこらない話に戻る。猫は難しいことを長く考えるようにはできていない。

 賢明な読者はその辺を考慮して、思いつくままの話を気まぐれに読み流していただきたい。経験の浅い猫の話だ。くれぐれも大人げなく《ムキ》にならないこと。独断と偏見に満ち、自意識過剰なのが《猫》というものなのだ。言葉尻を捕らえて《あげあし》を取るのは人間の悪い癖。だが、猫の《あげあし》まで取るようになったら人間もおしまいだ。

[第1話おいたち]



 この家の犬は二匹とも血統書付だ。自分で言うのもなんだが、人なみ、いや、猫なみはずれた気品と容姿から、ワタシも血統書付の猫と思われている。が、何を隠そう、実は捨て猫だった。しかも出戻りを2回繰り返している。《バツ2》というやつだ。生まれたときから胃腸の調子が悪く、神経も繊細だったから、いつも下痢気味で粗相をして嫌われたらしい。《トイレのしつけできています》は猫の最低条件だろう。

 ところで、かねてより気になっていたのだが、この《バツ2》という言葉、どうも聞こえがよくない。ワタシは《×1》を《エックス・ワン》と読むべきだと思う。《エックス・トゥー》、《エックス・スリー》…と続く。《シングル・エックス》、《ダブル・エックス》、《トリプル・エックス》…なんてのも粋でいい。この場合、四番目以降を数えられる人はぐんと少なくなる。

 ワタシが《ワンニャン会》の保護を受けたのは生後およそ三ヶ月のとき。誰かに拾われてしばらく飼われていたが、病弱だったため、ワンニャン会に連れてこられた。この会は、捨て犬や捨て猫の保護をする目的で作られたそうだ。不幸な犬や猫を減らすために避妊手術や去勢手術をさせたり、里親を探したりする奇特な人たちのグループだ。オカアサンはメンバーではないが、メンバーの人と知り合いで、ときどき子犬を預かったりして協力していた。猫はオトウサンが大嫌いだったから、預かることはなかった。

 その一時預かりの犬たちにも、オトウサンはいちいち名前をつけた。口の周りが黒くて、百姓のオッサンのような犬には《ゴンちゃん》。オトウサンは彼に小さな麦わら帽をかぶせ、首にタオルを巻いて遊んでいたそうだ。この子は性格も頭もよかったらしいが、オトウサンはシェパード党だし、二匹も犬を飼えない。秀才のゴンちゃんにはすぐに貰い手が見つかった。

 色白で神経質なメス犬には、当時飼っていたシェパード《ポリ―姉ちゃん》の名前の一部を取って《リーちゃん》。この犬は当時、塾の講師として来ていただいていた先生にもらわれていった。リーちゃんは三年たった今もオトウサンとオカアサンの顔を覚えている。時々様子を見に行っているからだ。家の人と話をしていると、「早くこっちに来い」とキャンキャン鳴くらしい。

 それから、薄い茶色の洋犬の雑種。やや気は弱いが、人なつっこくて性格が良かったので《ケンちゃん》。これはオトウサンのお友達の名前だそうだ。犬は《ケン》とも読むから、その意味もある。この子は大阪に住むオカアサンの妹にもらわれた。《ステイシャ》なんて気取った名前をつけられたらしいが、半年後に車に轢かれてあえなく死んだという。ケンちゃんの名前のままだったらあたら若い命を奪われずにすんだかもしれない。名前の持つ魔力である。人間の《ケンちゃん》は今ももちろん健在である。

 早速話がそれた。《ワタシ》の話だった。
 ワタシは正真正銘かわいかったからすぐに里親が見つかった。が、粗相がひどくてすぐに返された。二回目もそう。ワンニャン会の必死の努力で《三度目の正直》の里親を探してもらったが、粗相をする猫なんてそうそう貰い手はない。早速《ダジャレ》だ。これもオトウサンの影響。読者はこれから先、ワタシのダジャレに悩まされることになる…かも知れない。

 未熟児で生まれ、胃腸が弱くて華奢だったから、せいぜい生後三カ月にしか見られなかったが、すでに生後一年になっていた。子猫というには年をとりすぎていたので、次の行き先のあてはなかった。困り果てたワンニャン会から頼み込まれて、オカアサンが引き取ってくれたというわけだ。

 この暗い過去は世間には隠し通している。オトウサンやオカアサンは「この子は捨て猫で、ウチが三度目なんですよ」なんて無神経に人にばらしているが、人間がどう思おうとワタシには関係ない。問題は猫を中心とした動物仲間たちだ。彼らに秘密が明かされるとワタシの威厳と築き上げた権威は失墜する。

 ただ、すんなり縁組が決まったわけではない。問題は二つあった。

 第一に、オカアサンは猫も大好きだったが、オトウサンは大の大の猫嫌い。猫に関しては嫌な思い出があったらしい。そもそも彼はワンマンで度量が狭く、自己中心的な性格。自分に従うものはかわいがるが、従わないものには邪険にする。絶対服従のシェパードのラック姉ちゃんはお気に入りだが、本能で動く柴犬の次郎兄ちゃんはいつも怒られてばかりいる。だから、猫なんてとんでもない。オトウサンによれば猫なんて、「わがまま勝手、自己中心、協調性がない、持続性に欠ける、人の命令に従わない、交通信号を守らない、卵を産まない、肉が食えない、スープにもならない、番犬にならない、引っかく、家具を傷つける、一日中寝ている怠け者、尻尾を振らない、殺しゃ化けて出る、…」とさんざんだ。少なくとも前の三つはオトウサンには言われたくない。「犬は三日飼ったら一生恩を忘れないが、猫は三日で忘れ、ニワトリは三歩で忘れる」とも…。そこまで言うかとムッとくるが、否定はできない。「その通り」と開き直るしかない。それが猫なのだ。それを認め、受け入れる人間だけが晴れて猫と友達になれる。ちなみに、オトウサンのお友達の猫は《いびきはかく、寝言は言う、歯軋りはする、屁はこく》と、それはかなりの大物らしい。別に会いたくもないが。

 第二に、オカアサンは実は猫ならロシアンブルーかアビシニアンが欲しかったようだ。黒猫は良くても三番手か四番手。結婚前に実家で黒猫を飼っていたからということだが、本当は黒ヒョウに惹かれていたらしい。まさか黒ヒョウは飼えないだろう。シェパードといっしょに玄関に出てきて「ワン!」なんて吠えたら、たいていの人間は腰を抜かす。威圧感があって泥棒などの悪い人間は近づかないだろうが、良い人も近づかない。じゃれているうちに「ガブッ」とやられたら一巻の終わりだ。黒ヒョウに似ていて手に負える野性といえば黒猫。しかも、《色が真っ黒で、つやが良くて、尻尾が長くて、スタイルがよくて、美人で、性格が良い》という厳しい条件がつく。案外面食いなのだ。ラック姉ちゃんも次郎兄ちゃんもそれなりに美人と男前らしい。猫の審美眼では異なるが…。

 それでいてオトウサンと結婚したのはなぜか。理解に苦しむところだ。まあ、この程度の条件は当然ワタシなら簡単にクリアできる。黒ヒョウの代わりというのがプライドを傷つけたが、家族を魅了させる勝算は十分あった。

 当時、兼業農家であるこの家の納屋にはネズミがいて、収穫したミカンやイモなどをかじられ、対策に頭を悩ましていた。オカアサンがすかさず猫を飼うことを提案し、オトウサンも「猫なんか金を出して買うものじゃないが、雑種の捨て猫ならネズミ番にいいだろう、餌代もそうかからないだろうし」としぶしぶ賛成。オトウサンの気が変わらないうちにと、オカアサンの行動は早かった。ただ、下痢だけは治しておかなければ元の木阿弥になる。行きつけの動物病院に三日ほど入院させた。ついでに避妊手術もすませ、下痢はほぼ完全に治った。こんなことならなぜもっと早く治療してくれなかったのか。あるいは、この家に来る必要があっていろいろな障害があったのかも知れない。障害がなければ、この美貌だ、すんなり他の家にもらわれていたに違いない。多分、ワタシはこの家に来る運命にあったのだろう。人間万事、塞翁が馬。猫だって同じだ。

 三年ほど前にもしつこくついてくる捨て猫に情が移り、二週間ほど飼ったことがあるそうだ。この猫も超美人で、ロシアンブルーに似ていたため、オカアサンが強引にオトウサンを説得した。オトウサンもルックスにひ惹かれ、《ロッシー》と名付けて飼うことを許可した。が、この飼い猫ネコ第一号、いたずらがひどすぎた。「猫はこんなもの」とオカアサンは弁護したが、自慢のステレオのスピーカーネットを破られたオトウサンの逆鱗に触れ、永久追放になった。必死で次の飼い主を探したオカアサン。そんなこともあって、今度は万全の対策でのぞんでくれたようだ。

 かくして、ワタシはこの家のペットの一員になんとか加えられた。《ネズミの番猫》という地位からのスタートだ。スタートは問題ではない。そのあとが肝心だ。野球のピッチャーでも、マウンドに登るときの拍手より、マウンドを降りるときの拍手のほうに価値がある。ワンニャン会から、「人なつっこい、猫ばなれした猫です」とオトウサンに援護射撃もあった。ワタシもオトウサンには特に意識して《良い子》を装った。《ナメナメ》のサービスもした。犬なら日常行為だが、猫が舌で人をなめるのは《出血大サービス》といえる。ただ、足の水虫には正直言って閉口した。動物病院で「今日はどうされました?」「ええ、オトウサンの足をなめて舌が水虫。」…なんてシャレにならない。

 無事一週間が過ぎたころ、「この猫、鳴けへんし、声をかけても知らん顔や。耳、聞こえへんのとちがうか。」とオトウサンの声。聞こえていないわけではない。何しろ小さかったからほとんど寝ていたし、猫は犬のように呼ばれたからといっていつも「はいはい」と飼い主にすり寄って行って愛敬を振りまくものではない。特に理由はなく、《猫だから》としか言いようがないのだ。

 ただ、猫らしく鳴かなかったのは事実だ。実際には小さな声で「ニ」と発声していたが、猫は「ニャ―」と鳴くものだと思っていたオトウサンには認識されなかったらしい。これには深いわけ理由がある。何しろ二回もらわれていって二回返されているのだ。下痢のウンコで部屋を汚してこっぴどくたたかれた。ドメスティック・バイオレンス(家庭内暴力)だ。幼心をずいぶん傷つけられたことを思い起こして欲しい。幼いころの心の傷はなかなか治るものではない。トラウマというやつだ。下痢も多分神経性のものだと思う。

 それからオトウサンの口移しの特訓が始まった。オトウサンの《教え好き》がここでも発揮される。「ニャー」…「ニ」、「ニャー」…「ニ」。猫が人間、それも猫嫌いの人間に発声練習をしてもらっているのはなんとも滑稽な風景だ。

 三日後、我ながら著しい進歩が見られた。「ニャー」…「ニッ」、「ニャー」…「ニャ」、「ニャー」…「ニャニャッ」。「ニャー」と言おうとするのだが、どうしても「ニャニャッ」と重なってしまう。オトウサンは「チャタリングだな」と笑う。チャタリングというのはもともと「ペチャクチャしゃべる」という意味で、キーボードスイッチを1回押すべきところをつい2回以上押してしまうような現象らしい。レッスンの後、自分でも反復練習したのだが、やはり「ニャニャッ」になってしまう。一週間後、ついにオトウサンはあきらめた。「ニ」から「ニャニャッ」とまで言えるようになったのだから、ひとまず大成功だと。

 ワタシもそれなりに満足だった。「ニャニャッ」、「ニャニャッ」、で何不自由なくすべてが通じる。発音が認識されるというのはかくも楽しいことか。「ニャニャッ」が幼児語だということはわかっている。成人猫の標準語、「ニャー」も人知れず密かに練習を重ねていたことは言うまでもない。一年過ぎてから、つまり二歳になってから「ニャ―」と発声できるようになった。でも、まわりの人間は「ニャニャッ」の方がかわいいと言う。そこで、人間の前ではたいてい「ニャニャッ」で通している。処世術も大切だ。粗相も全くなくなり、追い出される要因はなくなった。

 これがワタシのおいたち。一日目で張り切って、少し長話しをしすぎたようだ。疲れたから一眠りすることにしよう。

2005.01 都会から農家に嫁いで
  (初山多得子、JA紀南女性の会発表、紀南誌2005.04掲載)



 JA紀南誌に載った記事です。












































 おはようございます。

 田辺に来て25年が経ちました。今ではすっかり田辺人。結婚の話があった時、主人はある電器会社のエンジニアでしたが、実家が和歌山の農家でいずれは帰って百姓をするつもり、と聞いてとてもうれしく思いました。私は大阪のど真ん中で育ち、《土》というものにあこがれていたからです。学校の運動場と、神社の公園以外はほとんどセメントやアスファルトで埋め尽くされていました。川といえばあのきたない道頓堀川。それに一日中走る車の排気ガス。こんな環境から抜け出したかったのです。

 でも実際思っていたこととは大きな隔たりがありました。長男が生まれてから、義父の《帰って来いコール》が激しくなり、予定をかなり早めて田辺に帰ってきたのですが、まず夜の暗さにびっくりしました。夏はさほど感じませんでしたが、秋冬になると6時ともなれば溝か道か区別がつかない真っ暗闇になりました。大阪では一晩中明るかったので、この暗さは恐くて、家から一歩も外へ出る事が出来ず困ったものでした。車なら行けたと思うのですが、当時私は車の免許はおろか、自転車にさえ乗れなかったのです。田辺では少なくとも《スーパーカブ》に乗れなければ生きていけないことを知りました。今ではスーパーカブにコンテナを載せて、立派な《百姓のおばやん》になっています。

 農業を全く知らない私には収穫ひとつをとっても大変でした。ひかっている実とか二分着色、五分着色といわれてもちんぷんかんぷん。総取りだといわれたときだけわかるのですが、拾い梅のときは腐ったのはもちろん、種になったものまで丹念に拾って、あきれられました。主人は多少農業を知っていたのですが、それでも、剪定の講習会で「徒長枝って何?」と質問してみんなに振り向かれたことがありました。「なんで音楽みたいな言葉が出てくるのか」と思ったようです。

 農具ひとつをとっても、小学校の教科書に出ていたものの名前を知っているだけでした。また、外に散歩に出たときには、図鑑で知っているものを見つけては感激し、知らないものを見つけては喜びでいっぱいでした。自生のスイセン、すかしゆり、レンゲ、アケビ、道端の雑草さえ喜びを与えてくれました。フキノトウもはじめて食べました。

 主人との話が決まり、ゆくゆくは田辺に帰ってくることになったとき、義父がうれしさの余りあちらこちらで私の写真を見せていたようです。そのときの世間様の会話は、「こんど敏やんとこ、嫁さんもらうんやて。大阪かららしいわ。敏やん、えらい喜んでいるけど今のうちだけや。見ててみ。百姓したことない都会の女の子がいつまで持つやら。」ということだったらしいです。それが今では、「おまはんようやるのう。きょうび百姓の子でも百姓仕事きらうのに。」という言葉です。そこにはこの25年、辛抱強くゆっくりと教えてくれた義父があったからだと思います。どこに行くときも失敗ばかりで何の役にも立たない私を連れて長い目で見てくれました。最初から農業の大変さがわかっていれば嫁いできたかはわかりません。
農家の嫁問題は深刻です。今、息子が適齢期を迎え、自分のときを思い出します。

 農家のお母さん方は、自分の娘の嫁ぎ先にサラリーマンの次男、三男を考えます。そのくせ、息子にはどうか家の農業を継いでくれて、しかもやさしく気立てのよい嫁をという《虫のよい話》をよく耳にします。息子の縁談の話でも、何回かそんな言い分を聞きました。

 我が家は農家といっても規模が小さいので参考にはならないかもしれませんが、都会から農家にきた経験が何らかの参考になればと思います。

 義父が亡くなったとき、わが家の田畑は合計5反ほどでした。まともな百姓では食べていけません。そこで主人は塾経営や高校の非常勤講師で外貨を稼ぎながら、有機・無農薬農業に近づける実験を繰り返し、インターネットで販売することで活路を見出そうとしました。現在、梅、ミカン、野菜と米それぞれ約3反ずつと、ニワトリを200羽余り飼っています。こんな世の中ですからこの先どうなるかわかりませんが今のところ何とか軌道には乗っています。私が農家でやってこれたのは、義父の辛抱強い指導のほか、主人と同じ方向を見て自分たちの考えで仕事ができたからだと思います。押し付けられ、抑え付けられていたら、多分楽しく仕事ができなかったでしょう。

 大規模農家であっても、その利点を生かして《後を継いでくれる、嫁の来てくれる農業》にすることができるのではないでしょうか。私からのアドバイスは、《じっくり見てやる、若い人の意見や考え方を尊重してやる》ということです。後継ぎや嫁が新しいことをするときは、《やってみなはれ、やらなわからしまへん》とおおらかに構えてやってください。自分のアイデアが生かされなければどんな仕事でも面白くありません。

 今も毎日何かの発見と喜びがあります。私を理解してくれる夫や息子とともに、これからもがんばっていきたいと思います。私を支えてくれるものとして、ペットたちも忘れてはなりません。犬や猫を飼うことは癒しになります。今、シェパード、柴犬、黒猫を飼っています。百姓をしていると世話が大変なときもありますが、動物はうそをつきません。私は動物によっても助けられていると思っています。

 大勢の前で話すのは初めてで、まずい話を我慢して頂いたことに感謝します。ありがとうございました。
付録

 2003.5にJA紀南誌の《青い部屋》
という、ミセスのコーナーに寄稿した
文章です。同じような内容なので、
付録という形で載せます。
 











都会から来て                     初山多得子

 「おまはん、都会から来て百姓ようやるのう、きょうび百姓の子でも百姓せえへんのに」。主人が会社を退職し、田辺に帰ってきてから20年以上たった今もそう言われます。でも、私は自然と百姓が好きなのです。
 私は大阪のど真ん中,松屋町に生まれました。コンクリートの建物、舗装道路。土の部分は殆どなく、空はいつもどんより、川といえばドブのような道頓堀川。交通の便が良かったので、自転車にも乗れませんでした。
 もともと田辺に住んでいる皆さん、雨の日、ぬかるんだ道に喜びを感じたことがありますか。道端に生えている雑草の花をきれいだと思ったことがありますか。全く異なった環境で育った私はここ田辺で初めての体験をたくさんしました。澄み切った空、満天の星、凛とした真珠のような月、エビやカニや魚のいる川は、あこがれだけのものでした。それが現実になり、その上、主人の家は農家で、教科書でしか見たことのないものを見、手にして、使ったのです。自転車を練習し、農家の必需品「スーパーカブ」に乗るために二輪の免許、さらには普通車の免許まで取りました。
 生まれて初めて犬を飼ってもらい、散歩中にレンゲの田んぼの中で犬と寝転んでレンゲをいっぱい摘んでは田んぼ中撒き散らしたことも楽しい思い出です。
 失敗もいくつか。初めて梅取りをした時。両親から「梅取りはまだできへんから梅ひらいをしてみい」と言われコンテナをひとつ渡されました。何を拾ってよいのかわからず、落ちているものは全部拾いました。コンテナを撰果台にあけた時の両親の顔はみものでした。腐った実や、果ては種になったものまで拾っていたのです。
 田植えの時。田植え靴を借りて片足ずつ田んぼに入りました。最初の片足を抜こうとしたのですが全く動きません。渾身の力でやっと抜けたのは自分の足だけでしかも全身泥まみれ。以来、田んぼに入るときの私は、半そで、半ズボンに裸足です。
 道具の名前から、クワ・カマの使い方までを一つ一つ教えてもらいました。クワ使いは今だに苦手ですが,現在、農家の人と一人前に話ができるのも両親をはじめ地域の人たちのおかげだと思います。
 農業は機械化が進み、昔に比べて楽になったと言われますが、重労働で自然相手。つらいことのほうが多い。けれども、自然の恵みはそれに勝るものと思います。今、理解ある(?) 夫と同じ方向を見て農業を営み、愛する家族と動物、豊かな自然に囲まれて生活できる私はとても幸せです。

2002.11 私のキーワード
  (初山正己、自然卵ネットワーク、自然卵通信27号)

 私は技術者としての会社務めを30歳で「早期退職」したあと、塾経営、高校の非常勤講師、親父の農業の手伝いなどをしながら独学で司法試験に挑戦しました。が、時間と能力の不足で挫折。弁護士・弁理士はあきらめて農業を一つの柱にと、本格的に取り組みはじめました。
 農業の現状を見ているうち、私でなければできない農業、つまり「オンリーワン」農業を実行せねばならないと思うに至りました。不利な条件・環境を逆手に取った農業の始まりです。
 その経験から、私は次のような人生観を持っております。以下、「私のキーワード」としてご紹介したいと思います。
 写真は那智勝浦町の「あげいん熊野詣」というイベントに参加したときの私たち夫婦。
1. 三本柱












 今の職業は,農業,塾経営,不動産賃貸業の三本柱。
 農業は親の財産を受け継いだものですが,慣行農法から脱却して有機・無農薬に挑戦し,インターネット販売をするという,全く違う農法。田畑も借りたり買ったりして約2倍になりました。農業不況の今日,借りるのも買うのもチャンスです。
 不動産賃貸業は丸ごと相続しましたが,貸家が老朽化するまでに,新たな戦略を考えねばと思っています。
 塾はこのところの教育の荒廃と、新人類,宇宙人といわれる親たちやその子供たちに嫌気がさして十一月いっぱいで廃業予定。縄文人は消え去るのみと判断しました。欠けた柱の補充として文筆業を考えていますが,作家として「売れる」のは難しいでしょう。
 農業は,梅,ミカン,野菜・自然卵の三本柱。いずれも値崩れが激しく前途多難ですが,塾より活路を見出す余地は大きく,何よりも生きがいを持てると考えます。販売ルートも直販,農協,市場の3本柱。インターネットでの直販が永遠に安泰とは考えていません。
 子供は息子が3人で、これも三本柱。子育てに成功する確率が90%,失敗する確率が10%とすると,3人とも失敗する確率は0.1%。つまり少なくとも一人が成功する確率は99.9%になり,ほぼ安泰といえる。ゆくゆく,長男が私の農法とお客様を受け継ぐことになっている。
2. QOL







 クオリティー・オブ・ライフ,つまり、「生活や生命の質を高める」という意味だが,これが私の人生の基本である。仕事も遊びも一所懸命にやる。時計の振り子と同じで,左右に同じだけ振れてはじめてバランスが取れる。右にだけ振れる時計はないだろう。
 阿波踊りなども好きで,「踊るアホウ」として参加する。次男を徳島の大学にやったのはそんな「下心」もあってのことだが、次男は徳島がいたく気にいって大学院まで行くという。あと2年は次男のアパートに転がり込んで阿波踊りを楽しめる。写真は「れれれの連」の皆様と。私は漫画をほとんど読まないが,バカボンは大好きです。
 趣味は日本最後(多分)のオープンデッキ,テクニクスRS1500Uの開発者だった関係でオーディオ。縄文人のマニアは,今のオーディオセットでは癒されない。買い換えるにしても中古しかないが,幸い程度のよい中古を格安で見つけてくれたり,譲ってくれたりする知人がいて感謝している。自慢のセットで,私は音楽というよりも「音」を聴く。落語のレコードや阿波踊りのCDまで幅広い。
 カメラは30年前のものを使っているが,今は忙しくてHP用の写真を撮る程度。釣りも三男がオジイチャン譲りの「釣りバカ」で,彼のアッシー君としてついて行っているうちにはまった。「釣りバカボンのパパ」は今,金をかけない「小物釣り」で満足している。
 仕事もQOLを基本とし、「楽しくなければ仕事ではない」と考えている。これはつらい仕事はしないという意味ではない。「楽しくなるようにしなければ損」ということだ。何も努力しないで楽しさは得られない。仕事が楽しくなるように努力し,知恵を絞れ。どんなに努力しても楽しくならないのならその仕事から手を引くべきだ。点数を取るためだけの勉強,お金を稼ぐためだけの仕事は空しい。
 物質的満足に左右されず,精神的満足を目指したい。ただ、自給自足で,余分なものが売れればよいという考えでは子供を大学にやれない。「小金持ち」程度は目指してもいいだろう。
3. 22:78の法則














 これは「パレトーの法則」とか簡単に「20:80の法則」といわれているものだ。空気中の酸素と窒素の割合,正方形に内接する円の面積と残りの面積の割合など,世の中の多くはこの割合で成り立っている。「上位20%の中に全体の80%の重要性がある」というのが本来の使い方で、重要なものに時間を使え,効果の少ないことには時間を使うなという法則だが,いろいろな方面に使える。割合に困ったときの法則だ。
 私は前に住んでいた自宅を設計するとき,部屋の部分と共用部分の割合を78:22にした。かなり快適だった。これから梅畑の一部を鶏小屋にしようと考えているが,ここでもこの原則を使おうと思っている。
 塾や予備校では,勉強のできる20%の生徒に80%の時間を費やし,勉強のできない80%には20%の時間を費やすのが一番効率的だ。しかし,教育は効率ではない。私は塾を商売とは考えていなかったから,それはできなかった。それもあって、廃業に追い込まれた。
 農作業では,改善点をリストアップし,上位3つの問題点から解決に取り組んでいる。また、農作業で完璧を目指せば時間が際限なくかかるから,所要時間をあらかじめ決め,その時間内に重要な部分から取りかかる。自分は80点で合格、他人は80%の80%,つまり,60点程度で合格としている。人間,どうせ100%はできないのだ。
 インターネットのお客様も,私の考え方をほぼ理解してくれるのが20%,その中で本当に理解してくれるのが20%,その中で購入してくれるのが20%,つまり0.8%、125人に1人を対象と考えている。日本の人口が1億2500万人なら100万人、1家族4人として25万世帯が対象となる。それだけあれば御の字だ。固定のお客様が300世帯もあれば経営は成り立つ。あらゆる消費者の声をまともに聞けば,今のようなひどい農業にならざるをえない。対象を絞ることによって自分の信念も通せるし,質の高い農業ができる。
 これからの農業は自分で売ることを考えねばならない。商売と農作業もだいたい22:78で力配分している。
4. ハイブリッド

 農業は工業や商業の「クイモノ」になっている。農業がどんどんひどくなっていく原因はそこにあると考える。いい農作物を作るにはローテクでなければならないが,縄文時代に帰れば百姓の使命である,「質のよい作物を提供する」,「消費者の需要を満たす」のうち,後者が果たせなくなる。私は「質のよい作物」を作るのに支障がないところではハイテク(工業)も必要と考えている。輸入に依存する石油の消費も控えるように心がけなければ,なくなったり,高騰したりしたときににっちもさっちも行かなくなる。が,今のように人件費が高くて,農作物の生産者手取りがグローバル化された時代では機械類も使って効率を高めざるを得ない。写真は中古の運搬車の上に新品のコンプレッサーを乗せて梅の剪定をしているところ。
 幸い,親戚が農機具屋なので,新品を安く,また,程度のよい中古を買うことができる。親父が亡くなる前から,収入に応じて買い揃えた。借金は原則としてしない。「金のないときは借金せずに我慢する」が私のモットーだ。
 販売はインターネット中心で,これはハイテク。どちらかに偏ることなく,ローテクとハイテクをうまく組み合わせるハイブリッド農業が私の目指すところである。原理主義者では生きていけない。
5. リサイクル

 廃棄物の利用も大切だ。農業そのものが,野菜などの残り物をニワトリに食わせ,ニワトリの糞を野菜や梅畑にやるなど、捨てるものがないようにしている。
 上杉鷹山にならい,「入るを図って,出るを制す」を心がける。できるだけ人に頼まず,自分でできることは自分でやるようにしている。写真は3段の棚の屋根を作っているところ。高所恐怖症の私には大変な作業だ。ニワトリ小屋や倉庫なども大体自分で作る。材料はほとんど知り合いの建設会社からもらってきた廃材など。廃材置き場も作っており,カンナクズは鶏小屋で糞と混ぜて発酵させ,肥料にする。オガコはニワトリの目に入って失明したりするので,今はEMぼかしを作るときのみ使う。これは肥料と飼料の両方に使えるようにしている。籾殻も貴重な資源だ。ただでいくらでも入る。
 道路工事をしていれば,セメントのかけらや縁石や土砂などを運んでもらって駐車場などに使う。
 産業廃棄物の処理が難しくなった今,頼めば喜んで運んでくれる。「もらうは一時の恥,もらわぬは一生の損」だ。お礼も忘れてはならない。礼を尽くしておけば,あとで情報が返ってくる。お礼はお金ではなく,農作物でする。その分「売れた」ことになるし、思わぬ注文が来ることもある。
6. 原点





 戦後の日本人は原点というか、哲学・信念を持たない。アメリカにアメを舐めさせられ,腑抜けにされて原点(大和魂)を忘れてしまったといってよい。その時その時で原点を移動させて安易に対処しようとしている。戦後,破廉恥に原点をずらした「進歩的知識人」にかき回されたのが今の日本である。
 私は各人が自分の不動の原点を持つべきだと考える。原点を持たないのが「自然体」ではない。原点を持ちつつ,座標平面,あるいは座標空間を広げるべきだ。頑固といわれてもいい,縄文人といわれてもいい,確固たる信念がなければ若い人たちを指導していくことはできない。年寄りは年をとっているがゆえに尊いのではなく,知恵を持っているがゆえに尊敬されるのである。「今時の若い者は」となげく前に,自分がどれだけの哲学・信念を持ち,若者を指導できたのかを問うべきである。正義を通すときは困難を伴う。「正しき者は強くあれ」は私の座右の銘であるが、信念を持ってがんばっておられる会員の皆様にもこの言葉を贈りたい。

2001.3 私と紀伊民報
  (初山正己、創刊90周年特集への寄稿)

 いつも「ふるさと」に入れている地方紙紀伊民報。創刊90周年記念特集に載せる,「私と紀伊民報」のテーマの文を募集していた。知り合いの社員から依頼があって応募。5人分載っていましたが,もしかしたら5人しか応募がなかったのかもしれません。図書券をくれるそうです。私の文はまんなか上のいい位置にあり,家内と息子は「お父さんのが一番良かったよ」と言ってくれました。幸せな家族ですね。塾の講師のご主人や知り合いの人達も同じようなことを言っていましたから,まんざら「おめでたい家族」でもなかったのでしょう。写真では見にくいので,原稿の本文をコピーしてはり付けました。

  「ふるさと宅配便」
 「"ふるさと"届きました。いつも新鮮で安全でおいしい卵や野菜をいっぱい入れていただき、ありがとうございます。野菜ごとにくるんでいる紀伊民報も楽しみの一つです。1枚1枚読んでいると本当に故郷の両親から心のこもった荷物を送ってもらったような気がします。全国紙ではこの感動は起こらないでしょう。東京生まれ、東京育ちの私に田舎はありませんが、やっと故郷ができました。…」
 これは1年あまり前から始めたインターネット販売のうち、「ふるさと宅配便」に対するお客様からのメールです。有機・無農薬野菜の鮮度を保つために新聞でくるみますが、全国紙よりも地方紙のほうが「ふるさと」を感じて頂けると思ったのです。私自身、学生・会社員時代に親から送られてきた荷物の中の「紀伊民報」が懐かしく、読みふけったものでした。
 十数年前、あるライバル紙が出てきたとき、正直言って紀伊民報は敗退するのではないかと思いました。ライバル紙が全国ニュースも載せ、洗練されていたのに対し、紀伊民報は地方に密着しているものの、誤字脱字も多く「アカ抜け」しない内容だったからです。外部の者はどう考えるのか、関東出身のある大学院生に2紙を見せ、どちらが生き残ると思うか聞いたことがあります。彼は…「世界的・全国的なニュースは全国紙で読める。地方紙としては多少ヤボったくても地域に密着した紀伊民報の方がおもしろくて好きだな。」とのことでした。なるほど、そういう見方もあるのか。はたせるかな紀伊民報は生き残りました。しかも地方紙に徹しながらだんだんに「アカ抜け」してきました。「ライバル紙」に感謝すべきでしょう。
 新聞の、「情報提供」という大切な役目が終わったあとの有効利用も「資源を活かす」という意味で無視できません。紀伊民報を骨までしゃぶる有効利用法をご紹介しました。これからも「したたかに、しなやかに」地方紙に徹した紙面を期待しています。

2000.12 私の農法と技術
  (初山正己、自然卵ネットワーク、自然卵通信16号)

自然卵,梅,ミカン,野菜,米…
 QOL(クオリティー・オブ・ライフ:生活・生命の質の向上)を目指して有機・無農薬農業に挑戦しています。語るべき技術もありませんが、20世紀最後の記念すべき号に原稿を依頼され、恥を承知でお引き受けしました。紙面の関係で多くは述べられませんので、詳しくはホームページをご覧下さい。
[写真]家内と3人の息子に手伝ってもらって建てた鶏小屋の一部。廃材を利用しましたが,約15坪で15万円でした。
きっかけ














 私はもとエンジニアで、小さい頃から勉強を中断して農作業を手伝わされたため、農業は余り好きではありませんでした。田辺に帰ってきたあとも、塾、法律関係の資格試験の勉強、高校の非常勤講師と、農業から逃げていました。そんなド素人の私が農業に取り組みだしたのは次の理由からです。
1.相続税対策のために「農業後継者」になる必要があった。
2.親父の「慣行農法」やさらにひどくなって行く現代農業に疑問を持ち、自分の考えで農業をしたかった。
3.パイウォーターやEMに出会い、有機・無農薬農法の見通しがたった。
 市販の卵が気持ち悪くて食べられなかった私はまずニワトリの自然卵に取り組み、ガンになった親父に免疫力をつけさせるために烏骨鶏も飼い始めました。ニワトリ用の無農薬野菜作り、比較的簡単な梅の剪定、難しいミカンの剪定、低農薬の米作り…と、人に聞いたり本を読んで次々と自分なりの技術を確立してきました。本質をつかんだらそれをルーチン化(パターン化・機械的作業化)しました。これによって時間短縮を図り、人の助けも借りられます。人間は何事も「完全」にはできません。自分は80点で、人は60点で満足すべきです。
私の目指す農法…自然体農法







 農法は大きく次の順に分類できると思います。
   自然農法→有機・無農薬農法→慣行農法→工業農法(科学的農法)
 百姓の使命は「大きくて見栄えの良いもの」を作ることではありません。ただ、単に「健康に良い作物」を作るだけでなく、「必要量を確実に作る」ことも大切です。「無農薬だから全部虫に食われました」では済まされないのです。私は両極端の「原理主義」をとらず、有機・無農薬農法を中心とする「しなやかな」農法を目指しています。いわば「自然体農法」で、1つの考えにこだわらず、良い所は吸収していく方針をとっています。「人類の叡智」を全く無視するのはオロカなことです。具体的には…
1. 化学物質を控える



 農薬・化学肥料はマイナスのエネルギーと考え,極力控えています。
が、EM・木酢・海藻エキス・有機物肥料だけでは対処できないこともあります。例えば,ミカン・梅などの果樹は完全無農薬では樹そのものが枯れ、実が収穫できなくなるので、最低農薬と低農薬に分けて作っています。写真左上はかんきつ類の最低農薬実験農場です。野菜は双葉の頃なら農薬が残留しないので必要なものだけ低農薬をかけ、発芽からの生育を早めて虫害を防ぐために有機入り化学肥料も若干使います。
 農薬のうち、一番問題となるのは「除草剤」。これは絶対に避けなければなりません。除草剤の怖さも、使わないときの大変な労力もあまり知られていないのが残念です。「土は裸を好まない」、「雑草も神様が必要だとして存在させた」と考え、逆らわずに次の順で対処しています。
(1) 作物が優勢のときはそのままにしておく。
(2) 雑草の代わりに敷きわらをしたり、野菜などを植える。
(3) 未完熟のヌカやおがくずの発酵を利用して除草する。
 写真左下は,稲にヌカ・EM活性液・木酢をまいているところ。
 稲への除草剤使用は果樹よりも深刻な問題を含むと考えます。
(4) 安全なところではバーナーで何回かに分けて焼く。
(5) 草刈り機で刈り取る。(これは作業が大変)
2. 太陽エネルギーを活用する

 健全な生き物は太陽を必要とします。私は太陽エネルギーを最大限に活用することを第1に考えています。
 左の写真は梅の剪定で、3,4年かけて大改造しました。親父の反対を押しきってチェーンソーでバサバサ切りましたが、おかげで太陽がよく当たって枯れ枝が少なくなり、作業性も格段に良くなりました。収量も余り減っていません。みかんは剪定が強いと「ボケ」たり実の質が悪くなるので5,6年かけてじっくり改造しました。鶏小屋(一番上の写真)は屋根をつけないと雨にぬれた鶏糞が匂って近所迷惑になるので,高価ですが透明波板を使っています。太陽と新鮮な空気と良い餌・水。健康でストレスのないニワトリからしか健康な卵は産まれません。卵は「結果」です。ミカンや梅の樹や野菜も喜ばせてあげれば良い結果を出すはずです。結果だけを追ってはいけません。
3. 循環農法を目指す





 鶏糞は梅や野菜に、野菜の残りはニワトリに、梅やミカンの剪定枝は炭にしてミカンの樹のもとに…など、
無駄のない循環農法が理想です。鶏糞取りは有機肥料を集めていると思えば1つの仕事で2つ以上の仕事をしていることになります。消極的作業を積極的作業に変えるのです。
消費者との接触と販売の努力








 特に「こだわり」の農作物を作っている方の中に「生産」だけを考え、「販売」を「悪」としている傾向が見られます。私もそうでした。が、今は「販売」に少なくとも20%のエネルギーを使うべきだと考えます。努力に見合う収入がなければ次の仕事も生活もできません。私はホームページを作り、ポケット市を週2回開き、フリーマーケットなどのイベントに参加する…というように、消費者の声を直接聞いています。いくらも稼げず、「何のためにこんな農法を続けているのか」と消費者に幻滅したこともあります。消費者の声にそのまま左右されると「悪い方向」に行きますが、「消費者からかけ離れた生産者―原理主義者」にならないことも大切です。
 最後に、私のような農法を進めていくには家内の協力が不可欠だったことを付け加えておきます。


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