我が家のQOL

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 日ごろ仕事に追われる日々ですが,仕事ばかりしていると人間としてのバランスが崩れてしまいます。 時計の振り子は左右に振れ,決して右だけ,あるいは左だけに振れることはありません。 人間も同じで,思いきり仕事をすれば思いきり楽しむことが大切です。 子供達が小さい頃はほとんど日曜日ごとに車で出かけたものです。 子供達が大きくなり,夫婦2人になった今でも,機会を見つけて「楽しむ」ようにしています。 楽しみは「遊び」だけでなく「仕事」や「行事」などの中にも見つけることができます。何でも楽しめる感性を持つことが大切なのだと思います。
 QOL(クオリティー・オヴ・ライフ)とは、「生命・生活・人生の質を高める」という意味で,「人間の尊厳」を尊重する考え方です。 分かりやすく言えば「豊かな心で生きる」ということでしょうか。 主に医療について使われていますが、一般生活においても最優先しなければならないことでしょう。 我々夫婦も世間並に「ケンカ」をしますが,基本的にはこの考え方で生活し仕事をしようということで一致しています。 このページでは他のページには入らない「遊び」の部分の写真を入れて説明しています。 トップページに紹介したあと次の更新で消してしまうと「なぜ消したのか」との「お叱り」が「ごく一部」の方からきたのと, トップページの量を減らして見やすくするのがこのページを作ったもう一つの理由です。 最も「ひとりよがり」なページになると思いますが,人間味は一番出ると思いますので「アホなことをしているなあ」と笑って見てやってください。
 

トルコ旅行 2012.06

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 毎年恒例の格安年金旅行。去年は資金不足でトルコを断念したが、今年とて事情は変わらない。まだ元気なうちに言葉や事情がが全くわからないところに行っておきたい、冒険は今のうち、と決断した。原則として家内との旅行は全て私の年金と500円貯金から出ている。国際情勢から、安全に行けるのは今年の6月末までと考えていたので、家内から不足分15万円を《借りて》、ツアーに申し込んだ。例によって家内は歴史や地理に興味があるが、私はほとんど興味がなく、家内が決めた行き先をただついて行くだけの《金魚のフン》。その代わりギャグを飛ばしてヒンシュクを買い、地元の人に語りかけ、デジカメで写真と動画を撮り、食い物を楽しむ。どのツアーにも《困ったチャン》がおられ、今回も例外ではなかったが、何とか我慢できるだけの《度量》も出てきたと我ながら成長に驚いている。ま、ある人たちにとっては見境なくギャグを連発する私自身が《困ったチャン》だったかもしれない。添乗員やガイドさんは《ネタ》を仕入れられるから、内心は喜んでいると思っている。添乗員の松田さん、ガイドのバリッシュさん、私のギャグなどはご自由にお使いください。笑われるのはあなたたちです。

 トルコは昔和歌山県串本でトルコの軍艦が遭難したときに漁民たちが助けたことから友好関係にある。かつて隆盛を誇るも今は周りの国から奪われるだけ奪われ《歴史》だけが残っている、日本の行く末を考えさせられる国だった。

 トルコ語は全く知らなかったが、私としては何とかトルコ人とコミュニケーションを取りたい。いつも海外旅行に携帯する電子辞書にトルコ語も載っていたので、行きの飛行機の中でチェックしてみた。《ありがとう》がやたらと難しい。『テシェッキュレデリム』。一番美しい言葉《ありがとう》はどこの国でも短くて簡単なのに、トルコはここで損をしていると思った。『テシェッキュル』でもいいし、『ティッシュくれ』でも通じると添乗員さんは言ったが、私はプライドと血圧だけは高い。何回も正式な発音を練習して、三日目に使ってみた。相手は喜んでくれた。挨拶が通じただけでもうれしいものだ。トルコ語はドイツ語に近いように聞こえた。

 カタール航空でドーハまで行き、それからイスタンブール。高いツアーは直通らしい。ドーハ空港ではいろんな人種が見れた。いろんな言葉も聞けた。知っている言葉を聞くと挨拶くらいしかできないのに話しかけ、すごい美人を見ると思わずついて行く、悲しい性。今回、列車が運休とかで国内はすべてバス。確かに疲れたが、バスもなかなかいいものだ。

≪写真の説明≫ ほとんど動画なので、写真は少ない。
1.
 初日に行ったイスタンブールのブルーモスク。中はきれいだったが、外壁は近くで見ると《ボローモスク》だった。近くの《トプカプ宮殿》は見ごたえあり。このあとボスフォラス海峡をクルーズ。

2.
 エフェソスの会議場あと。今までの写真の中で足が一番長く見えるので、載せただけ。これからはできるだけこのアングルから撮影してもらおう。(私)「この神殿に住んでいた人はどうなった?」(ガイド)「さあ、わかりません。」(私)「みんな死んでんて。」

3.
 パムッカレからコンヤへ行く途中、蜂蜜ヨーグルトを食べさせてもらった。ヨーグルトだけだとちょっと食べづらい。トルコ旅行の目的の一つは《トルコアイス》。これはカッパドキアで派手なパフォーマンスをしているおっさんに敬意を表して一つ、帰りのイスタンブールの空港で一つ。空港ではテーブルを探していたところ、ある外人が手招きする。英語で話しかけてきたので英語で答えると、どんどん話しかけてくる。シカゴ大学の教授とかで、英語に飢えていたのだろう。しばらく使っていない英語だが、トルコ語や中国語よりははるかに使える。言い間違いまで《ギャグ》と受け取ってくれて、話が盛り上がった。「トルコはどれくらいおんねん。」「8年間。」「え?8年?」「そう、リュック背負ってな、8年歩いた。」
 両替したトルコリラは空港で水を2本買って全部使ってしまったが、実は0.5リラだけポケットに残っていた。この0.5リラ、何を隠そうこの空港で拾ったものだ。

4.
 カッパドキアの洞窟ホテル。我々の左下の窓が我々の泊まった部屋。洞窟だからばらつきはあるが、みんなの話によるとかなりいい部屋だったみたい。ここから気球がよく見えた。気球は私が高所恐怖症なのと、朝早く起きるのがつらかったのと、もちろんお金の問題もあってお断りした。ちなみにカッパはいなかった。頭のてっぺんが禿げた人はいたが。

CM:
 海外旅行のお供にわが農園の《梅肉エキス》をどうぞ。
 水あたり、食あたりなしで過ごせます。

チョコレート 2012.02

 チョコレートは大きな明治の板チョコが好きだった。今は店に見当たらない。どこに行ってしまったのだろう。純粋なチョコは儲けが薄いらしく、今は《混ぜもの》が多い。バレンタイン、父の日、10月の誕生日にはみんなほとんど迷うことなくチョコレートをつけてくれる。これを家族にも勧めながらちょっとずつ食べるのが私の趣味。一人で食べてもうまくないし食いすぎる、バカ高いチョコより手ごろな価格のものをみんなで分けるほうが楽しい。このごろは息子の嫁2人も義理チョコをくれるので助かる。写真の左は誕生日にもらってまだ残っている1箱、上はブランデーやウイスキーの入ったチョコで、今日食べた残り。

 私に何を贈ったらいいか迷う人は、迷わずチョコレートにしてほしいと、この場を借りてお願いしておきます。

映画、落語など 2012.01

 カラオケのDVD化がほぼ終了すると、映画や落語などもそろえたくなった。できるだけお金をかけないようにオークションで落札したソフトのうち、VHSやLDはDVDに焼きなおした。
 写真はその一部。
*黒澤明:他の追随を許さない黒澤作品は手元に置いておきたかった。録音機器や録音技術が進んでいればもっと楽しめたはず。 好きなのは羅生門、夢。
*007シリーズ:動作をテキパキさせるために購入。ただ、今となっては体がついてこない。 ジェームズ・ボンドには知性と色気を備えたショーン・コネリが最強で、後の映画は蛇足のような気がする。
*猿の惑星:いろいろ考えさせられた映画でした。
*桂枝雀:映像がないと彼の芸は完成しないから。《面白い》よりも《うまい》が前に出るまで生きていてほしかった。
立川談志:あまり好きではなかったが、反面教師として時々見たい。出来の良い噺はさすが。
*藤山寛美:松竹新喜劇は基礎のしっかりした人が喜劇をやっている。学芸会のような喜劇も時間つぶしには否定しないが。
*落語 昭和の名人:CDだが、大好きな古今亭志ん生・志ん朝親子も入っている。なぜ《名人》と言われるのか、初めて分かった人もいる。映像がないと《粋》がわからないかも知れない。
レコードでは、桂春団次、柳家小さん、古今亭志ん生、先代三遊亭円歌、三遊亭円生などをすでに持っている。

中国ー杭州 2011.11



 2011年はトルコに行く予定だった。
が、まだ一部しかもらえない年金をあてにした《格安旅行》には高根の花。どの道、予定していた日は地震で行けなかったが。

 仕方なくミステリーツアーなるものに申し込んだ。
だいたいタイと予測していたが、これも大水害で流れた。
結局中国は杭州に変更になった。去年も行っているのにと思ったが、旅行会社のお詫びの気持ちもあったのか、プラザとヒルトンに宿泊し、とくにヒルトンは客層もよくて大満足だった。

 写真上は上海のとある庭園。西湖で撮った笑い転げた写真は年賀状に使った。この写真は比較的メタボが目立たない。ウーチンの写真も良かったが、霧が濃くてノイズがひどかった。

 写真下は上海美術館で展示されていた白檀(びゃくだん)の如意観音像と蛍石。上海万博に出品されていたという。観音様はいいお顔をしていた。蛍石は遠くから見れば大黒様に見える。

東京さ行っただ 2011.10






 10月末、骨休みに東京の次男のところに行った。
東京にはお客様をはじめ、知り合いも多い。

 今回は寄席にも行きたいと思って、都内の寄席を調べた。
好きな落語家さんたちはすでに亡くなっているが、
聞いてみたい芸人さんが一番揃っていたのが浅草演芸ホール。
それでも2名は代演になっていた。
ライブには良さもあるが、お客さんのマナーが気になった。
普段は家内の《金魚のフン》だが、今日は一人で出かける。
演芸ホールは随分迷ってたどり着いた。
親切に道案内してくれた人が間違っていた。
 浅草へ 金魚のフンの 一人旅

 会社の同期の方が江戸東京博物館で解説員のボランテイアをしている。今回も2年前のように案内していただく予定でしたが、急用とのことで我々だけで見て回った。

 すぐ近くに両国国技館がある。ヤグラのむこうに小さくスカイツリーが見える。スカイツリーは浅草の方が近くに見えた。

 東京は数回来ているが、地理がほとんど分からない。
どこでもそうだが、親切な人とそうでない人がいる。
関西人は東京弁が冷たく聞こえる。
練馬の次男の10階ベランダから富士山そっくりの山が見えた。
「あの富士山そっくりの山は何や?」
「富士山や。」

 おあとがよろしいようで。

オーデイオルーム 2011.10

 カラオケルームにステレオを運んで、オーディオ・カラオケルームとした。
300kgほどあるステレオやレコード・テープ類は母屋の2階にあり、3/11の大震災でますます怖くなったため、ここに移動することにしたのだ。
部屋は16畳ほどあり、そこそこ贅沢なオーディオルームになった。
音響もいい。オープンデッキはガラスのドア付きラックに入った。
カラオケ関係は右下の椅子の周りにまとめた。
ただ、カラオケ用スピーカーだけはステレオのスピーカーの上に置いた。
 部屋が広いためか、各コンポが小さく見える。
仕事のあとの楽しみだ。

カラオケルーム 2011.05

 鶏小屋新築移転のために借りた畑の《別荘》をカラオケルームにした。
工事をしてくれた電気屋さんに《カラオケ》機材一式をもらった。
捨てにいくとお金がかかるというのが本音かもしれないが、ありがたく頂く。
《凝り性》の私は知人にレーザーカラオケを貸してもらってDVDに焼き、
あとはオークションでソフトをそろえた。
アンプとテレビは買いなおし、DVDデッキ、、ビデオデッキを新規購入。

 カラオケに目覚めたのは3年前、60歳だった。
それまでカラオケは歌うのも聴くのも大嫌い。
ピュアオーディオをやっていた関係で、カラオケの《ドンシャリ音》には
耐え難いものがあった。いい音楽を耳にしていたから《音痴》ではなく、
自分の歌の下手さがよく分かっていた。
が、3年前、長男夫婦にカラオケに連れて行ってもらって悟りを開いた。
歌手はお金をもらうから、お客様を酔わせなければならない。
カラオケは自分がお金を出すのだから、自分が酔えばよい。

 八代亜紀、都はるみ、加藤登紀子が好きだが、
美空ひばりの偉大さも分かりはじめてきた。
あまり難しくない頃の歌は好んで歌うようになった。主に《1人カラオケ》。

中国旅行 2010.07



 3回目の中国。今度はツアーの観光旅行。
高速道路建設の関係で鶏小屋を新築移転したが、
大変な思いをしたので、《ご褒美》。結婚35周年もかねている。
相変わらず私は《金魚のフン》。家内の計画をぼんやり聞いていたが、
着いてみると一度は行ってみたかった黄龍の五彩池(下の写真)。
これは感動した。上の写真は九サイ溝で、さすが中国、スケールがでかい。

 片言の中国語でいろんな方に話しかけました。
特に底辺で働いている被差別少数民族には、
「こんにちは。ご苦労はんやな。がんばりや。」
「ニィハオ」だけでは反応しない人もここまで言うと
ニッコリ笑って声を返してくれました。
どんどん話しかけてきたときは、
「ウォ、プーホイ、ハンユゥイ」
(ワタシ、中国語、分っかりましぇ―ん)。
誰彼なく話しかけてギャグを飛ばすのは私の悪い癖。
子供たちからひんしゅくを買っていますが、
外国では問題を起こすほどの語学力はありません。

 ハイビジョン動画の撮れるデジタルカメラは
随分活躍してくれました。

 《行けるうちが花》。 
元気に動ける間にお金を工面して各地に行こうと思います。
《金魚のフン》で家内に迷惑をかけるが、金魚もフンがなければ
泳ぐときにバランスが取れないのでしょう。

玉虫 2009.07−2

 田舎でもめったに見られない玉虫。
きれいでしょう。
ビワの樹を剪定していたらいきなり私の肩にとまった。
長男の嫁に見せてやろうとわざわざ持ち帰ったが、
あいにくの昆虫嫌い。
玉虫もクワガタもゴキブリや蜘蛛と同じ仲間らしい。
がっくりきたが長男や家内は大喜び。
玉虫もカナブンやゴマダラカミキリと同じように悪いことをする
のかもしれないが、綺麗だから許される。
どこかの、「別に…」の女優さんみたいなものか。
もっとも、カナブンにも玉虫色のきれいな部分はある。

 以前玉虫を飼おうとしたが1日で死んだ。
以来、玉虫は鑑賞後自然に放すことにしている。
畑に持ち帰り家内の腕に載せて記念撮影をした後、
《玉ちゃん》は元気に飛び立って行った。

 農薬のせいで昆虫はめっきり減った。
小中学生の頃、夏休みの宿題を終業式の3日後には片付け、
あとは昆虫採集三昧。
日記まで全部書いてしまって登校日に先生に怒られた。

集中豪雨 2009.07−1



 7/7、和歌山県中部、南部に大雨警報。
数十年ぶりの大雨で、我が家の坂の下の道まで水が流れた。(写真上)
鶏小屋は浸水、畑の一部も土砂崩れ、倒木でミカンの樹も2本折れた。

 が、不幸中の幸いを見つけた。
水がある程度おさまったあと、川原に密生していた葦の林と
得体の知れない蔓が、何と我が家の下だけ消え、
昔ながらの、石と砂利の川原が復活した。(写真下)
車2台の向こうが堆肥置き場、左の2つの白タンクが液肥の貯蔵庫。
それらの向こうが新しく出来た川原。
川原には石や砂利がなくてはいけません。
出来るだけこの環境を維持していくつもり。

椿温泉 2009.03

 3月初めから左手がしびれる。
脳梗塞や動脈硬化のせいではないらしい。
体が冷えているのかもしれないと、《社長》に休暇を申し出た。
もともと無給だから《有給休暇》ではない。
田辺から30分くらいなので、今回は私1人。
国際観光旅館富貴という、たいそうな名前だが、素朴で、
4,50年前の古き良き時代の椿温泉をそのまま残したような、
良質のお湯の良心的な宿だ。
PH10という、強アルカリの湯。
飲用としても最高ランクになると思う。

 特筆すべきは料理。
この料金でここまでしてくれるかと、感激した。
灯台下暗しだったが、これからは家族でお世話になると思う。
お湯の質に慢心せず、がんばってほしい。

三朝温泉 2009.02



 知人に勧められて鳥取県の三朝温泉に家内と3泊。
ここはラジウム温泉で有名。
湯あたりしない軽い温泉だが、体は軽くなる。
今まで経験したことのない感覚だ。
勧められた《桶屋》は古くて小さく、女将さんが料理も切り盛りしている。
豪華な料理は出ないが、しっかりした味。
良心的な料金で、湯治には《強く推奨》。
風呂場はごらんのように殺風景だが、お湯が目的だからこれで十分。
温度はその時々で変わる。
左奥の、板で囲っているところはお湯飲み場。

 三朝の町を歩き回り、あたご梨や徳利芋をお土産に買った。
例によってギャグを飛ばしていると、お店のご主人が「あんた、何者よ?」。
「わしは越後のちりめん問屋」。
以前、「わしは浪速の漫才師」と言って、完全に信じられたことがある。

 下の写真は《足湯》。
この左には薬師堂があった。
温泉地には病気を治すお薬師さんが祭っていることが多い。
「おん、ころころ、せんだり、まとうぎ、そわか」。

35年前のアパート 2009.01


 1/16、旧松下録音機(今はpanasonic)の新年会がありました。
今年で4回目の参加です。会場は松心会館といって、
門真消防署の前、門真市役所のすぐ近くです。

 11時30分始まりのところ、10時10分ごろ着いたので、35年前
24,5歳の頃に住んでいた七福荘というアパートの周辺を見てこようと、
ダイエーの向こうだったという記憶をもとに歩き始めました。
周辺は昔の面影をとどめず、どうせ建てかえられているだろうと
思っていましたが、このアパートだけが奇跡的にそのまま残っていました。
外も中も当時のまんま。大感激でした。

 更にびっくりしたのは大家さん。当時60歳くらいに見えたから、
35年たった今は95歳くらいのはず。
生きていたとしてもアパートにいるはずはないと思いながら
管理人室をノックする。返事がないのであきらめて帰りかけたが、
なんとなく呼び戻されるような気がして、10分ほど歩いたところで
引き返してもういちど管理人室のガラスをたたく。
すると、なんと、当時の大家さんが顔を出した。
88歳だという。当時50歳過ぎだったのですね。
ちょっとボケもあったが、5分くらい話をすると思い出し、
大変喜んでくれた。人の良い、すばらしい大家さんでした。

 いろいろなことがあり、病気もされたようですが、
上機嫌でおしゃべりし、歌まで歌ってくれました。
「生きている間にまた来て下さい」。
家内とまた行ってあげようと思います。
結婚したときに一度ご挨拶に行ったことがあります。

 懐かしさと感激で、携帯で写真を撮りました。
私が住んでいたのは2階の、電信柱の右の部屋。

バイクのバッグ新調 2008.12


 20年程前に買ったHONDAのREBEL。
皮製のサドルバッグが風雨にさらされて汚くなったので、
ABS樹脂のバッグに新調した。旭風防のチャンピオンバッグ。
この会社は感動するほど良心的で迅速丁寧な対応だったので、
感謝の気持ちをこめてここに特記しておく。
話題にもならないようなことだが、私はこんなことで感激するタイプ。
♪何でもないようなことが、幸せだったと思う♪
というやつだ。
今の世の中、幸せを感じる感性の高い方が勝ち。

 青コンテナは家内のバイク、黄コンテナは長男の嫁のバイク。
バイクにコンテナを積んで走るのがスーパーカブ普及率日本一の
《田辺》の風物詩。ナンバーは念のため消している。
普通はコンテナをゴムひもでくくるのだが、荷物を入れにくい。
長男の嫁は荷物台を大きくしてもらい、コンテナの下部と荷物台を
針金で留めている。中国4000年の知恵。
若い日本女性ならこの格好では絶対に走らない。

東京訪問 2008.11

 今年は方々へ行く機会が多く、
息子たちに申し訳ないと思いながら出かける。
呼ばれるうちが花、行けるうちが花。

 今回はずっと行きたかったコンサートのチケットが手に入ったので、
次男の千葉の宿舎を基地にして19日から3泊で東京に行った。
折角の東京だから無理のない程度に予定を組んだ。

 初日は次男の部屋の掃除。これは家内の楽しみでもある。
2日目は農園のお客様第1号のグループに2年ぶりに会った。
ご主人の退院を迎えに行って、そのまま銀ブラ。
東京は物価が高く、農園の収入では生活できない。
かつての《テクニクス銀座》は入居者が変わって久しいという。
3日目は家内の友人に30年ぶりに会い、
会社の同期の方ーといっても6歳上ーに2年ぶりに会った。
彼はボランティアで江戸東京博物館のガイドをしており、
案内をしてもらったあと、奥様、娘さんと共にコンサートに招待した。
4日目は次男を連れて和歌山に帰るだけ。
和歌山は遠い。東京は広い。

 写真は博物館の《リンタク》に乗って。

勝浦、湯川温泉で湯治 2008.11








 

 お薬師さんを祭っている所のアルカリの湯で湯治せよと言われて、
勝浦温泉と近くの湯川温泉でそれぞれ2泊した。
椿温泉、湯の峰温泉は日程が合わなかった。

 写真上は湯川温泉。
勝浦より歴史は古く、泉質も良いと思われるが、
お客さんは少ない。
交通の便などもあるが、お客さんが来ない原因は
なんとなく分かるような気がする。
自分の欠点は自分では見えず、他人の方がよく見えるものだ。
外から見た意見に対し、《聞く耳》を持たなければ改善はない。
ここではいろいろ勉強させてもらった。

 写真中は雨の薬師如来堂。
薬師如来は医療の守り神で、次男三男もその分野なので、
手を合わせるようにしています。

 写真下は帰り道、新宮から本宮の間で見かけたがけ崩れ。
幸い手前に新しいトンネルが出来ていたので、支障なかったが、
和歌山県の道は昔からこんな通行止めが多かった。
龍神への道はいつもどこか工事中。
 土木工事には利権が付きまとうが、
悪いのは道や工事そのものではなく、人間のエゴ。
利権・汚職があるからといって道路を作らないというのはおかしい。
道路特定財源で、都市部の道路を散々整備しておいて、
やっと地方に順番が回ってきたら
「道路特定財源そのものがおかしい」なんて言い出す。
利権を厳しく監視しながら、必要な道路は作るべきじゃないのか。
交通量が少ないなどというが、
交通量を問題にすれば過疎の地には道路がつかず、
ますます過疎になって災害時に陸の孤島になる。
人間のやることだ。
理想より現実を優先させることも必要なのではないか。

北海道還暦旅行 2008.10






 息子たちが還暦記念に旅行に行かせてくれるという。
私は旅行に関しては《金魚のフン》。
ただついて行くだけ。
家内は北海道希望。
新婚旅行で行くつもりだったのだが、
当時は仕事が忙しく結婚式を含めて4日しか休暇が取れなかった。
しかたなく九州南部を行ったり来たり。
北海道旅行は張り切ってカメラとビデオカメラを持っていった。

 北海道に来たからには北方領土と、知床を見、
海の幸、特に《ウニ》をたらふくと考えていたが、
ツアーのため、ウニたらふくは実現できなかった。
わがままな私が無事にツアーを過ごせるか、
みんなで心配したらしいが、
1組の異様な父子にみんなの目が集中し、
残りのツアー客はかえってうまくまとまっていた。
私よりわがままそうな人もいたが、
互いにシャッターを押し合うなど、わきあいあい。

 北海道は1日1kg太るという。
4日目はほとんど《臨月》状態でした。

 写真は順に、
納沙布岬:歯舞諸島が見えた。
羅臼岳:知床旅情に歌われる羅臼。この右に国後が見えた。
     こんなに近いのに、なぜロシア領なのか。
     素朴な疑問だ。核保有国はやりたい放題。
摩周湖:かつて布施明のファンだった家内が執着していた摩周湖。
     霧の摩周湖といわれるように、
     普通、ほとんど霧がかかって見えないようだが、
     我々は《晴れ男》に《晴れ女》。
     はっきりくっきり見えました。
     このあと、摩周湖の伏流といわれる
     《神の子池》まで足を伸ばす。
     青い、綺麗な、神秘的な池だった。

広島・宮島 2008.09










 知り合いの病気見舞いに呉まで行った。
写真はひかりのレールスター。
ついでにということでもないが、田辺からは結構遠いので、
この機会に広島の原爆資料館と宮島にも立ち寄ることにした。

 資料館ではボランティアの説明員4名とお話させてもらった。
自らか身内が被爆された経験を話されたが、
そのうちの1人は人に近づくのが恐くなったという。
このごろは心無い方がおられ、
「被爆したのは自業自得だ」というような言い方をされるらしい。
学生や引率の先生方にもひどいのがいるらしい。
世の中、拝点主義・拝金主義がはびこり、
それによって《勝ち組・負け組》ができて更に格差が広がる。
知覧のときも思ったが、今の世界は歴史を捏造し、また、
《歴史を学ぶ》ことはあっても《歴史に学ぶ》ことがなくなった。
学べないのは子どもや若者たちだけではない。
日本や世界のリーダーたちもしかりで、
こちらの方が罪が重い。
こんなことばかり言っていると嫌われるが。

 宮島は実際に行ってみるとすごさが分かる。
人のよさそうな黒人男性と日本女性のカップルに出会い、
互いにカメラのシャッターを押し合った。
"Say butter ! Not cheese !"と言うと、結構受けていた。
"cheese"は笑顔になるが、"butter"は間抜け面になる。
男性のほうは日本語が分からず、まさかチンチクリンのオッサンが
英語で冗談を言うと思わなかったらしく、
女性から説明を受けて初めて理解した。「覚えとくわ」と。
分かれる際に、「再見」(ツァイチェン)。
これも受けたと自分では思っている。
 宝物館はスケールこそ小さいが内容は濃かった。
私の腹と同じ。下の写真の服はメタボが目立つ。

久しぶりの釣り 2008.07

 

 こちらでは4月頃からぼちぼち釣れ始めるが、我々素人は5月頃から。
今年は梅が長引き、スモモの仕事も増えたため、釣りに行く暇もなかった。
《釣りバカ》の三男が時々大阪から帰って来て釣りに行っていたが、
今回は久しぶりにオトウサンもということになり、連れて行ってもらった。
昔と立場が逆になり、主導権は息子にある。また、そうでないと困る。

 朝4時過ぎに起きて5時から田辺の北西にある南部というところで釣り開始。
釣果は、グレ(メジナ)と木っ端グレ約20匹、アジ約3匹、ウスバハゲ約1匹。
《グレ》といっても良い大きさのものが釣れたので、
メタボ、いや、太っ腹になって木っ端グレはほとんどリリースした…つもり。

燻製の実験 2008.05

 

 今は取り組む人もほとんどいなくなった烏梅(うばい。梅の燻製)
を作ろうとして2,3年実験を繰り返してきた。
烏梅は中国語で「ウーメイ」といい、日本語の「梅」の語源だ。
やっとメドがついて、やや大きな燻製器作りに挑戦。
ガンストッカーのいらないのを貰ってきて、長ねじで3段の棚を作り、
上の段からチェーンを4本ぶら下げて途中に金網を
フックで引っ掛けられるようにした。これが工夫。

 まずはニワトリや豚の燻製で実験。
百均で買った料理用トレイに以前から集めていた桜の木の枝を入れて
練炭の上に置き、煙を出す。
りんごのチップも用意している。豊富な梅のチップが使えれば理想的。
 廃鶏はモモ2本と手羽2本を12時間かけて燻製にした。
ハムのようにきれいにでき、適度の固さでおいしい。
おおむね成功だが、一部骨の周りができていなかったので、
各1本ずつをもう12時間延長してみることにしたが、失敗。
鶏だけではもったいない。ニンニクと、時期は早いが梅も入れてみた。
これからいろいろな燻製に挑戦してみるが、
固い廃鶏の使い道が開発されたのは何より嬉しい。

白浜アドベンチャーワールド 2008.04




 白浜は車で10分くらい。
近すぎてかえって行く機会は少ないが、
アドベンチャーワールドの招待券を貰ったので、
晩柑の季節と稲・梅の季節のあいまに家族で行ってきた。

 ここはパンダとイルカで有名だが、
それは《田辺あんない》に載せている。

 下の写真はたまたまペンギンとの記念撮影時間帯に当たったので、
撮ってもらった。
胴長短足はペンギンに負ける。

カラオケ(地区遠足) 2008.03



 3月始め、地区の遠足で椿温泉に行った。

椿温泉は白浜温泉の南で、昔から《湯治》で有名だった。

田植えのあと、1週間ほど自炊しながら湯治するのが年寄りの楽しみ。

今はすぐに梅の収穫があり、米の価値も低下した。

今の、そしてこれからの百姓は随分厳しい。

 椿温泉では湯に入って宴会、しばらくしてカラオケ大会。

ここはいろんな衣装を着てカラオケを歌えるのが《売り》。

長男の嫁はカラオケ大好きで、ピンクの衣装を着せてもらって上機嫌。

外国人花嫁だから、地元に早くなじませなければならない。

私はおっぱい丸出しの服で、《圭子の夢は夜開く》を歌う。

オーディオの仕事をしていたから、歌が下手なのは良く分かっている。

下手を自覚している点で、《音痴》ではない。

長男は声は出るが歌は下手。若夫婦で歌ったのは《ふるさと》。

中国の《ふるさと》でも思い出したのだろうか。

M電器OB会新年会 2008.01


京阪特急

京阪電車

本社・中央研究所

歴史館

松下電工
 松下電器(いまさらM電器といっても意味がないであろう)は

30歳前に《若年退職》したが、

3年ほど前からOB会に呼んでくれるようになった。

今は香里農園のお客様になってくれている、当時の技術部長の計らい。

「人間、呼んでくれるうちが花」と家内に言われ、

年2回の行事に参加している。

時には普段と違う人種と会うのも良い。しかも懐かしい。

今まで、技術者、教育関係者、農業関係者と付き合ってきたが、

それぞれの経験がプラスになったりマイナスになったりするようだ。


 この日1/11は新年会で、三男のアパートから門真に向かう。

京阪特急はもちろん門真には止まらないが、

懐かしくて淀屋橋から京橋まで《2階建て》の車両に乗った。

むしろ地下1階付き車両というべきか。

「子どもみたい」と笑うやつは笑え。

確かに私は《子ども》。飛行機だって窓から外をずっと見ている。


 1/10に田辺から大阪に向かう途中、サービスエリアで《松下電器》、

《Nationaj》が消え、《Panasonic》に統一されるというニュースを聞いた。

私が設計に関係したのはPanasonic一機種と、あとはTechnics だったから、

Technics に触れられていないのはやや悔しかった。

松下を離れて30年近く、そしてたいした技術屋ではなかったが、

いまだに《松下マン》から抜けられず、家族の失笑を買っている。


 とにかく今年10月からは《松下、National》の看板が見られなくなる。

というので、帰りの電車の窓から携帯で写真を撮ろうとした。

が、うまい写真が撮れない。

一緒に帰っていた、大学・会社両方の先輩が、

「あとで写真を撮って送ってやる」。

送られてきた数枚のうち3枚を選んだ。上から

本社・中央研究所 (本社には入社面接で1回だけだが、

    中央研究所には仕事で数回行ったことがある。

    昼飯が事業部より良かった。)、

歴史館 (ここは入社時1回だけ。右は松下幸之助さんの銅像)、

松下電工 (松下とNational が同時に写せるのはここしかないらしい。

       Panasonic電工となるそうだが、いかにも…《長い》。

       まあ、三菱東京UFJ銀行なんてのもありますからな。

       《じゅげむじゅげむ…》よりはいいでしょう)

前住居の解体 2007.11

 30年前に田辺に帰ってきて、以来20年間住んだセキスイハイム。残りの10年間は人に貸していた。ハイムは解体して再利用できるそうで、他の建築業者より随分安くついた。一般には粗大ゴミでしかない。吊り上げられているのは私の部屋の一部。子どもが3人とも男だったので、予定していた自分の書斎兼オーディオルームを子どもたちに譲り、予定していた男子2人用の子ども部屋を貰った。女の子用の部屋はついに使われなかった。

 間取りは全て自分で設計したので、1ブロックずつ吊り上げられるたびに懐かしさがこみ上げてきた。我々夫婦は組み立て当時大阪にいたが、当時3歳の長男は組み立てのときも立ち会った。この日はPENTAXデジタル一眼レフを持って撮りまくっていた。我々のような《思い入れ》はあまりないように見える。本心は分からないが。
 次男と三男には携帯の写真を送り続けた。

九州家族旅行 2007.10



 



 



 



 



 10
九州家族旅行  (2007.10)

 3泊5日(?)で九州まで家族旅行。
もともとは私たちの結婚30周年で知覧に行く予定だった。
が、息子の結婚やら何やらで延期になり、32周年になった。
長男は結婚1周年。
「どうせなら一緒に行こう。飛行機より車の方が安くつく。
お父さんはわがままやからツアーは無理や。」と。
幸か不幸か、長男の嫁も6月に免許を取り、
計算上は4人全員運転ができる。
といっても、お母さんの運転では安心して乗っていられない。
長男の嫁はまだ新米。
ということで、結局男2人が運転することになった。
還暦近い私には厳しいスケジュールだった。

 まあ、今時、親子4人で旅行できるというのは幸せなことだろう。
長男はデジタルカメラをcanonかpanasonicか散々迷った挙句、
アルバイト先で超安値にしてもらったデジタル一眼レフに簡単に転んだ。
旅行とカメラで日頃のストレスを解消できればこれに越したことはない。
《プライバシー保護?》のため、写真は小さくしている。

 以下、写真の説明。

1.前日の午後3時に和歌山県田辺を出て、午前2時ごろ関門海峡。
  途中休憩はそこそこたっぷり。向こうの灯りは九州。
  
2.知覧の特攻平和会館。(これは携帯のカメラ)
  午前10時頃だから、19時間かかったことになる。
  この歳で半徹夜はきつい。
  私は涙腺が弱いので、ただ、涙涙。
  いろんなご意見もあろうかと思うのが、
  日本のために犠牲になった方たちのことを、
  私たちは思い起こさなければならないと思う。
  《歴史を学ぶ》ではなく、《歴史に学ぶ》ことが大切だと考えます。

3.桜島を背景に。32年前に新婚旅行で来た思い出の地。
  歳も取るわなあ。

4.仙巌園の島津邸内。
  勧められて、ちょっと贅沢なコースの入場券を買った。
  着物を品よく着こなした女性が案内してくれた。
  篤姫はいなかった。
  このあと鹿児島市内のホテルへ。
  次の日は西郷隆盛の《城山》に登り、桜島の日の出を撮る。
  同じくPENTAXを構えたベテランらしきアマチュアの写真家。
  「やっぱり朝日はPENTAXですね。」
  ASAHI PENTAX の洒落だということに何とか気付いてくれた。
  若い連中ならこうは行かない。

5.城山のあとは阿蘇山周辺でゆっくりするスケジュール。
  阿蘇ではソフトクリーム、特にジャージ牛のものが食べたかった。
  デジタルだから気前よくシャッターを切ったが、
  いかにも記念写真というのもあっていいだろう。

6.大観峰から見た阿蘇山。
  《千手観音と涅槃に入る仏陀》というタイトルはすぐについた。
  このあと、さらに阿蘇スカイラインミルクロードを、
  夕日を撮りながら走り、熊本市内のホテルで2泊目。
  借りてきたカーナビがやたらとウソをつく。
  困ったときは《だんまり》になる。

7.8.水前寺公園の入り口前で面白いのを発見。
  こんなのがあると、長男の嫁は必ず首を突っ込む。
  我々も嫌いなほうじゃない。
  《ひょっとこ顔》は年期の差が出る。
  嫁は姑に似るというが、本当の親娘に間違われる。
  公園内では台湾人母子に話しかけたり、
  エラク美人の外人に付いて土産物屋まで行ったり。
  若い通訳が頼りない説明をしていたので、
  思わずそばから出しゃばって説明し始めた。
  英語もしばらく使わないとえらく錆付く。
 
9.熊本城に行く前に、旧細川邸見学。
  島津邸といい、日本の伝統的な家というのはすごい。
  比べるべくもないが、
  築82年の我が家はあと何年持ってくれるのだろう。
 
10.熊本城、天守閣。
  たいていの城と同じく、あとで建てられたものだという。
  この向こうに《宇土櫓》というのが残っており、それにも入った。
  松山城ほどではないが、階段が急で高所恐怖症の私には恐怖。
 
   このあと、熊本県内の温泉旅館に泊まった。
  結構広い内風呂があり、料理も満足。
  醤油が気に入り、1升ビン3本購入。
  馬刺しはすぐに食べる分を買い、
  あとは正月前に送ってもらうよう手配。
  
   寄り道をしながら、家に着いたのは次の日の午前4時。
  体力・疲労が回復するまで1週間は見なければなるまい。
  わがまま親父をいつまで誘ってくれるのだろうか。

横浜 2006.11

   
 11/14,15は横浜と伊東温泉まで招待旅行。
長男の嫁に「中華街在横浜」と書いて携帯でこの写真を送ると、
「在横浜的中華街」と添削されて返ってきた。
大して違いはないと思うのだが。
その前の《到横浜了》(横浜に着いたよ)は正解だったらしい。
中華街では日本語が通じるので、
中国語を使う必要もないが、何か言ってみたい。
ちょっとしゃべると、「お兄さん、これ安いよ」。
「不要」(プヨウ)と言っても聞かない。
4日後においの結婚式で横浜に来る予定だったので、
「そのときに買うわ」。これはもちろん日本語。

 下の写真はマリンタワーから見た「氷川丸」。
晩柑で協力してもらっている垣矢さんが、
戦争中南の島から命からがら助け出され、
日本に着いたとたんに病気が良くなって
今度は中国の戦場に行ったという思い出の船。
横浜に行くならぜひ見て来てほしいと言われて
山下公園まで短い足を伸ばした。

 氷川丸に、氷川きよしは乗っていなかった。
山下公園に、山下清はいなかった。
ただ、この時と、その後の東京・横浜訪問で、
私の体重は最高記録を更新した。
よって、ダイエットで理想体重よりちょっと太目まで
挑戦する決意を固くした。

花火 2006.8

   

 夏は花火

 花火は大きくて、大きな音がするものが良い。家庭用の花火には興味がまったくない。田辺は予算の関係で開催が「微妙」になってき、今は白浜の花火だけが頼り。私はわがままな見物客。自分の前に他人の頭があったり、子どもたちが騒いで砂をシートの中に蹴り込んできたりすると腹が立つ。見物客のマナーは年々悪くなってきて、不機嫌になることも多くなったが、やはりあの「ドーン」という音には勝てない。事件と同じく、花火は「現場」で起きている。写真やビデオでは本当に楽しむことは不可能である。

 まあ、同じ地球の生物仲間だ。大嫌いな、茶髪にピアスという若者であっても、素直に感動しているのをみると「仲間意識」を持つ。このごろは花火に連動して音楽を鳴らすこともある。が、音量がでかいだけの騒音はやめてほしい。純粋に花火の音だけを楽しみたい。

 子どもたちが小さい頃は「白良浜」で遊んだあと、「千畳敷」に車を止めて花火見物をし、再び車に戻って仮眠後、0時過ぎに家に帰るというパターンだった。子どもたちが大人になった今、夫婦がそれぞれの単車とスーパーカブで渋滞の車の列の間を通り抜ける。孫が出来たらまた車で早めに出て遅く帰ってくるのかもしれない。いずれ、「全国花火の旅」というのもやってみたい。毎年桜前線にあわせて南から北に旅する優雅な人もいると聞く。

愛媛旅行 2004.11



今治から道後温泉・松山城へ

 所用で今治に行ったついでに漱石ゆかりの道後温泉へ。今、出版社でチェックして頂いている私の処女小説の主人公も≪黒猫≫。漱石の黒猫には名前がなかったが、うちの黒猫には≪ヤマト≫というれっきとした名前がある。私の小説もできるだけ多くの人に愛されますように、漱石さんお願いします。

 写真は上から道後温泉本館、松山城、松山城の前の茶店。いずれも携帯のカメラで撮りました。

 今治城は藤堂高虎の城ということで興味があったのですが、最近建て替えられたとのことで、外から写真をとるだけにしました。

釣りバカボンのパパ 2002.8



 小物釣り専門

 三男はおじいちゃんに似て釣り上手。「釣りバカ」と言われています。
釣りバカボンのパパである私は全く才能がありません。分相応に木っ端グレやアジ、イワシなど、小物で満足しています。お金もかけません。上の写真の「グレ」は見えるでしょうか?
 今まで一番の大物は、知らぬ間に釣れていた(?)50cm近くの「チヌ」。
「お父さんのウキ、ないで」と当時小2の三男に言われ、おもむろにリールを巻くと「釣れて」いたのです。いい加減な釣りで、根がかりと思ったら実は「タコ」だったという話もあります。

 下の写真はこの夏2回目の釣り。「ボラなんか」と人は言うけれど、ボラの刺身は鯛よりうまいことがあります。「寒ボラ」といって、冬に釣れたものですが。残念なことにボラは海底の泥を吸って生きているため、公害の影響を受けやすく、今では危険な魚です。ボラが悪いのではありません、水を汚染させる人間様が悪いのです。ここは白浜の南の椿という所。田辺湾のボラはほとんど食べられません。
 実はこの20分ほど前に、下を泳いでいた60cmあまりのグレが、何を血迷ったのか喰い付いてきて、あっという間に針を持っていかれ、竿も折られています。
 

好物 2002.7

 私の好物は、マツタケ、カニ。どちらも今は高くなって手も足もでません。スイカやマクワウリは今でも食べられますが、安全でおいしいのは少ないですね。自分で作るしかありません。




夏はスイカ

 猛暑の中汗だくで仕事をしていると、おいしいスイカは何よりのご馳走です。
買ったものは当たり外れがあり、たいてい外れなので、自分で作るようにしています。スイカは連作するとおいしくないようで、毎年場所を変えています。
 ここ数年の問題はおいしさよりも、「スイカ泥棒」です。去年(2001年)はスイカを6本植えましたが、カラスやタヌキや人間にやられて1つも口にできませんでした。今年(2002年)はアライグマの被害が続出していますが、幸い私の畑は草ボウボウでアライグマは気づかなかったようです。草を引くと早速やってきたようですが、コンテナを伏せて上にブロックを乗せると盗りにくいようです。今年はこの時点で6個食べることができましたが、スイカのツルが傷むのが欠点です。
 ペットを飼う人は責任を持って最後まで面倒を見て欲しいものです。このアライグマご夫妻は精力絶倫のようで、子孫がかなり増えている様子。猿、ヘビ、ワニなどは絶対に捨てないで。
 スイカは大きく切って、種をプッと飛ばしながらダイナミックに食べるのが一番です。夫婦揃ってスイカ大好き人間。ビデオカメラが上にあったので、カメラ目線にするとこんな顔になりました。まあ、いまさらお見合いをするわけでもなし。
 黒スイカの方がおいしいのですが、アライグマに取られてまだ2個しか食べていません。来年はできれば「爆弾スイカ、ダイナマイトスイカ」なる真っ黒いスイカを植えたいと思います。

マツタケ

 (2003.10)

 高校生までは、家のマツタケ山があったのでたらふく食べられた。
 大学時代は帰省すると誰かがマッタケを持ってきてくれていた。
 会社員時代は4人部屋独身寮の残りの2人(ホンマモンのマツタケを知らない)を追い出したあと、福知山の友人宅から送ってきたマッタケを焼いて2人で食べた。
 新婚時代から数年は家内の親父が広島のマツタケを送ってくれた。
 義父が亡くなって後、「マツタケ」は「待つだけ」になった。外国産やサマツでは物足りない。
 長男と三男を、京都の福知山周辺に行かせたのは、「あわよくばマツタケにありつけるかも」というさもしいコンタンからだった。ついに5年後、長男から5本のマツタケが送られてきた。地元の友人から買ったのだという。早速「仏さん」にあげるやら、写真に撮るやら、「食い方」をめぐって意見が飛びかうやら…。
 親孝行な(?)長男はマツタケをあと1回と、これも私の大好物のカニを送ってくれるという。長男にも何か「コンタン」があるのだろう。

私のお気に入り 2001.8

 私のお気に入りの一部をご紹介します。いろいろある趣味を楽しむ時間がほしい!

 

 夏はカキ氷

 冷たいものを食べると頭や胸が痛くなるくせに、「カキ氷」は大好きです。「こだわり」も激しく、「ミルク金時」でなければならないのはもちろん、本格的な機械で作ったものでなければなりません。「家庭用」では満足できず、数年前親戚に頼んで「業務用」を安く譲ってもらいました。新品だと6万円前後するようです。氷は氷屋さんからカタマリを買い、16に分割して冷凍庫に入れています。
 塾の夏期講座に来た生徒たちにも機械などを持っていってサービスします。「夏期」講座と、「香里」塾のしゃれ。「カキ、コウリ」…「カキ氷」です。婚約時代、京都に遊びに行ったとき、あまりの暑さに喫茶店でカキ氷を注文しました。ところが冷房が効きすぎていて、やっと氷が来た頃には体の芯まで冷えていました。カキ氷は体が熱い状態で食べなければなりません。12月に農作業のあと食べたこともありますが。
 私のステレオ


 テクニクスRS1500U(カタログから)




 ステレオ

 縄文時代のオーディオマニアが「癒される」ステレオは、いまや中古でしか手に入らなくなりました。30年近く使っていると「寿命」が来て、当初から残っているのはパイオニアのスピーカーキットとトリオのチューナーKT-5000だけです。あとは全部「中古」で買い換えました。結構身分不相応のすごいセットになりましたが、超格安で買ったりもらったりしたので、「ねたみ」は買わないと思います。興味のない人から見れば《ガラクタ》にしか過ぎません。私はできるだけお金をかけずに楽しむ主義で、人との関係を大切にしていると良い話も舞い込んでくると確信しています。

 アンプはソニー555ES。プレヤーはテクニクスSL1200MK3。ただし、レコードは古典落語などを含めても30枚あまりしかありません。

 オープンデッキはアカイGX635DとテクニクスRS1506U。アカイは、前のティアックA2300が動かなくなって困っているのを聞いたさる方(猿ではありません)が「これでよかったら使って」とプレゼントしてくれたものです。チェックすると完動品で、ヘッドとピンチローラは「新品同様」。補修部品もないこの時代には助かります。テープ200本余りというテープ派の私には本当にありがたい話でした。テクニクスは、自分が開発設計プロジェクトの末席メンバーでありながら高価で買えなかったものです。ずっと中古を手配していて、RS1500Uの姉妹機でやっと念願がかないました。若干問題点もあるのでチェックしなければなりませんが、とりあえず撮影用にラックに入れました。
その後、上司だった元課長からRS1500Uの完動品をいただきました。

 スピーカーはパイオニアとタンノイARDENを切り替えて聴いています。タンノイは超高嶺の花で、あこがれていただけでしたが、30年前の初恋が実りました。

 あと、ラジオ付きCD・MDとダビング用の安物のカセットデッキ。CDは語学用以外は阿波踊り一枚しかありません。

 買い換えた中古は、ほとんど電気屋兼古物商のK氏(ケーシー高峰ではありません)から定価の10%程度で分けてもらいました。めちゃめちゃな値段で売ってくれたK氏には足を向けて寝られません。K氏は、今度は真空管アンプを買えと言っていますが、金婚式までは買えないでしょう。

 タンノイARDENとテクニクスRS1506Uは、銀婚式記念に買っても良いと家内から許可が出ていたものです。他に道楽のない私ですから、大目に見てください。いまどき、この両方を持って喜んでいるのは、日本でも2,3人でしょう。

 [2005.3.18追記]

 オープンデッキが2台とも出揃い、アンプも新しく、《中古》が手に入りました。オープンデッキは左がRS-1500U,右がRS-1506U。左はアンプが接触不良で故障、右は初めから走行系が不良でこれは前の持ち主がわけも分からずいじったためと思われます。技術者であっても、むやみにいじらない方がいいです。いずれも計測器なしでヘッドホンを頼りに触診で修理しました。退職時、回路図を記念に持って帰っていて正解でした。右下にはK氏から買った新しい中古アンプ。YAMAHAのコントロールアンプC4とパワーアンプB2です。ふるーッ。接触不良部などが多く、まともに鳴るのに3週間かかりました。その上のヘッドホンもそこそこなものですが、知り合いの質屋さん(さる方)で格安購入しました。皆さん、ご協力ありがとう。

 [2008.01.06追記]
 年末にやっとCDレコーダーを買ってもよいという許可が出た。YAMAHAのCDR−HD1500と迷ったが、結局DENONのCDR−W1500Nにした。長年の勘だ。オープンデッキと同じ品番なのも気に入った。写真右下の、セパレートアンプの上に載っているゴールドフェイスがそれ。SONYのラジオ付きCD・MDポータブルはディスプレイの故障で2回メーカー修理してもらっているうちに音まで出なくなりました。
 今度のCDレコーダーで再生すると、音が引き締まって奥深く感じます。ポータブルと比較するのは可愛そうですが。パソコンで焼いたものと比較しても同じ感じです。
もっと高価なCDプレーヤーなら、元のCDとこれで焼いたCDRの区別なども分かるのでしょうが、そうまでして《違い》を見つける意味はあるのでしょうか。50万円のCDプレヤーと100万円を越すCDプレヤーの違いも、幸いなことに私には分かりません。それでいいと思っています。正月休み、CD、オープン、レコードからの録音の実験中です。
 ちなみに、左のオープンデッキは、先日ヘッドブロックを新しいのと交換しました。
それと、地震対策のため、今はオープンデッキを下の段に移しています。 

 バイク

  この単車はHONDAのREBEL。私には250ccくらいが手ごろです。座席が低くて短足の私でも足が届くこと、ガソリンタンクの色が私の好きなエンジ色であること、クラシックなスタイルが気に入って、知りあいの自転車屋さんから3000km乗った中古を譲ってもらいました。自動二輪の免許は持っていたのですが、更新忘れで取り上げられ、48歳のときに400ccまで乗れる免許を取り直しました。茶髪の兄ちゃんもいる中、私が最年長でしたが、この単車に乗りたい一心だったのです。私はゆっくり楽しみながら走るので、時々女子高生やおばちゃんの50ccの原チャリに追い越されます。ちなみに、家内は私から見ると無謀運転です。
 事故経験者からヘルメットはいいものを買えといわれて、はじめは4万円ほどするお気に入りのエンジ色だったのですが、古くなって買い換えました。同じものを買おうと大阪まで出かけましたが、その店はつぶれていました。
 自分のお父さんもHONDAの単車に乗っているという外人が、"Rebel?"と聞いてきたので、”Yes. But I'm not a rebel." と答えると大笑いしていました。"rebel" は「反逆者」という意味です。


 デジタルビデオカメラ

  HPの写真はオートフォーカスのバカチョンカメラで撮ったものをスキャナーで読んでいました。デジカメが欲しかったのですが、どうせならデジタルビデオカメラにして動画も撮りたいと思い、「出物」を待っていました。とうとう破格値のものが手に入りました。値段は秘密です。申し訳ないような値段です。これからはリアルタイムで画像をお届けできます。「誰も待っていない」って?
 子供も成人し、ビデオも当分は撮る対象がないのですが、「孫」ができたら「じじバカ」で撮りまくるのでしょう。まだちょっと先の話。
 うしろの写真はファンの若貴兄弟です。「分かったか」なんて…。

協力者たち 2001.3

 我が家には仕事面はともかく、精神面での協力者達がいます。彼等のおかげで大いに「癒され」ていますので、紹介しないわけにはいかないでしょう。

 左はシェパードの「ラック」と,新入りの柴犬「次郎」です。
「ラック」は「糖度犬」としてご紹介済みです。「次郎」は両親の「アニマル・セラピー」のために飼ったものですが,面倒を見きれないということで引き取りました。引越しで両親の家に舞い戻って来て、「母屋」と私の書斎兼仕事場として使っている「離れ」の間に鉄格子を設けて飼っています。裏庭も彼等の「遊び場」です。「アヤシイ者」が来たらすぐに玄関にも飛び出て行けるようにしています。シェパードは結構「迫力」がありますので安心して生活できます。
 「ラック」は相変わらず写真嫌いで,無理やり座らせて撮りました。「次郎」は8ヶ月のオスで,何事にも好奇心旺盛です。落ち着きがなく私や「ラックのお姉さん」にいつも注意されています。「ラック」はまだ子供を産んでいないのですが,獣医と相談の上「避妊手術」をしています。今6才ですが,年をとるといろいろな婦人病が出てくるのだそうです。
 ラックは「お父さん子」,次郎は「お母さん子」ですが,お母さんの取り合いでケンカになります。エサをめぐっての「ミニクイ,仁義なき戦い」もあります。お父さんは恐いようで目の前でケンカはしません。シェパードファンの私には柴犬はどうもしっくり来ません。柴犬は「たくましく・したたかに生きる」力に優れていますが,シェパードの方が人間との協調性に優れているようです。


 
 納屋にはねずみがいて,稲はち機の中に巣を作るなど手を焼いていました。ミカンなども食べられます。サルモレラ菌がつくと大変なことになるので,猫を飼うことにしました。家内は「ロシアンブルー」か「アビシニアン」が希望だったのですが,「労働猫」として飼うのだからということで三番目に好きな「クロネコ」にしました。「ワンニャン会」(猫や犬の里親を探すボランティアグループで、ふだんもできるだけ協力させていただいています)から、「出戻りさん」だった彼女を引き取ってきました。本当に勝手な人間どもには腹が立ちます。「クロネコ」だから名前は「ヤマト」です。十数年前なら「タンゴ」としたかもしれません。時々間違えて「トマト」や「トヤマ」と呼んでも寄ってきます。アバウトな性格なのでしょう。袋が大好きで,袋に入っては「出られへん」といって騒ぎます。鳴き声も,「ニャー」ではなく,「ニャニャニャ」です。昔「おニャン子クラブ」にいたのかもしれません。トカゲを取って来ては仏壇に供えます。供養にならず,困ったものです。
 私自身はもともと猫は大嫌いです。番犬にならない,卵を産まない,自分勝手,シッポを振らない,悪いことをしても反省がない,信号を無視する…など、ちょっと考えただけでも短所がゾロゾロ出てきます。結構邪険に扱っているのですが,それを「遊んでもらっている」と勘違いして余計にじゃれてきます。あまりの「アツカマシサ・勘違い」に一歩も二歩も譲っている私です。あのザラザラした舌で一所懸命になめにきます。「お前,人をなめとんのか」と言いながらもだんだん「情」が移って来ています。

[2005.3.18追記]
 あれから4年。ヤマト5歳になりましたが、写真の通り美貌いまだ衰えず。2002.10から書き始めた小説《クロネコヤマト問わず語り》は2005.2に文芸社から出版されました。ペンネームを衣刀正といいます。オトウサンの撮った写真が表紙になっています。右の写真は本屋さんに積み上げられているところ。
 

引越し  2001.1

 引越しも我が家では「楽しみ」の1つです。子供達が大学や会社に入るときなど,レンタカーを借りて一家総出でワイワイ言いながら運び,配置を考えます。アパート探しも「目いっぱい」楽しみます。幸いウチの子は「古い,汚い」ということは言わないので,コストパフォーマンスの優れた物件を見つけることができました。今回の引越しは両親と同居するためのもので,荷物が普通の家庭の2,3倍はありましたので,引越し屋さんに頼みました。300mほど離れたところなのですが,7人来てもらって,10時間でも片付きませんでした。農作業などもあるので結局準備と片付けで1ヶ月かかったことになります。

 今まで20年間住んでいた所。初めはここで塾をする予定だったこと,子供が3人いたことなどからスペースが必要で,しかも予算が限られていたのでプレハブにしました。設計図は自分で引いたのですが,結構快適な生活ができました。手前は自転車小屋,白い建物の右が犬小屋,汚いトタンで囲んだところが稲の「下がり」の竹を入れるところ,家の裏庭には鶏小屋があります。鶏小屋と飼料庫はしばらくここに置きます。
 今度住む家。昭和元年に立てられた代物です。我々夫婦は2階です。右の白い建物が納屋で,その左の隠れたところに離れがあります。ここは私の書斎兼仕事場です。母屋と離れの間や裏庭は鉄格子で囲んで2匹の犬が自由に行き来できるようにしているので,ドロボウさんは気を付けて下さい。緊急のときには玄関まで犬が走って来れるようにしています。シェパードは結構「迫力」があります。家の手前に「最低農薬の梅」を植えています。うしろの山は「城山」といって,昔,先祖の小さな城がありました。今は[低農薬ミカン」の畑になっています。産廃ゴミ,引越しゴミ,資源ゴミは軽トラックで10回以上運びました。今は不法投棄する人が増えていますが,悲しいことです。

万呂の獅子舞 2000.11

 私の住む地区,田辺市「万呂」のお祭りで演じられる「万呂の獅子舞」をご紹介します。

 獅子,天狗,お多福が,太鼓,笛,囃子に合わせて舞います。これは田辺市の指定民俗文化財になっており,結構由緒があって,今年もテレビカメラや数人の「外人」が来ていました。田辺では「外人」はまだ珍しく,私が外人に塾の引越しやミカン取りを手伝ってもらっていると興味しんしんで見られたものです。
 この神社は「須佐神社」といって,須佐之男命が主神です。御存知天照大神の弟さんです。彼は全国を回ったらしく,方々に須佐神社があるようです。ここら辺では由緒ある神社といえます。
 これは「お宿」と呼ばれるお宅で獅子舞を奉納しているところです。獅子舞が1人で舞うときは右手に鈴,左手に幣(へい)という紙で作った花玉を持ちます。写真は木のペニスを持ったお多福と,竹に付けた幣を持った天狗が絡み合っているところです。
 私は今年「お役」(といっても端役ですが)を頂きました。が、小学生のときに見に行っただけですので様子がわからず,みんなのあとを「ついて行く」だけでした。私は太鼓が好きなのですが,こちらに帰ってきたときは30過ぎていましたので「青年」とは言えず,獅子舞には参加できずじまいです。
 今年は「元青年」の経験者が若手を特訓したようですが,申し訳ないけど「昔の青年」の方が数段うまかったように思います。天狗はスマートな男前,お多福は「個性的」な人というのが相場だったように思います。今の人は足が長く百姓仕事もしていないので腰を落としてお尻を振るお多福の「怪しげな色気」は出ていませんでした。来年はがんばってね。

農林水産祭り 2000.11

 年に一度,田辺市の農業・林業・漁業の祭りがあります。「花いっぱい運動」をしているボランティアグループのご好意で私たち「有機・無農薬農法」や「自然農法」のグループも出店させて頂いています。仕事といえば仕事ですが,「青空市」などはお客様との会話を楽しむ「楽しみの場」と考えています。



 上は本部や舞台のあるところ。無料で何かがもらえるということで長蛇の列ができています。政治家やお笑いタレントも来ています。10年ほど前,お客としてきた私は烏骨鶏の卵を売っていたおばさん達を相手にギャグを飛ばし,「あんた面白いな。何の商売してるんな。」と言われました。「ワシは大阪の漫才師や。今日は営業で来たんや。」と言うとすっかり信じていました。これが私と烏骨鶏の出会いです。このときの烏骨鶏は黒でしたが,その後,白の烏骨鶏のいいのを手に入れ現在に至っています。「売り手」でも「買い手」でも,会話を楽しまなければ「損」です。東京では「ちょっと負けて。」「ダメだ。」ここで会話が途切れます。このごろは大阪でも味気なくなりました。はじめから「目一杯」引いておかないとお客がよそに逃げるのだそうです。

 下は開店前から並んでくれているお客様に,「もう少しお待ち下さい」とお話している私。軽トラックで運んできた野菜とミカンは10分内に完売。追加のミカンを取りに家に帰りました。ポケット市でもこれくらい売れてくれれば「張り合い」もでるのですが。

 阿波踊り 2000.8

 徳島にいる次男のアパートに転がり込んで阿波踊り見物。
次男を徳島の大学に行かせたのは,阿波踊りをしてみたいという「下心」もあってのことでした。
去年は「見るアホウ」でしたが,今年は「踊るアホウ」。
病みつきになって,ビデオで研究し,あのすばらしい音楽をテープに吹き込んでウォークマンで聴いています。
欠点は足取りと腰が阿波踊りになって,人から不審な目で見られることです。
徳島といえばフェリーも気に入っています。ザコネして「ゴンゴンゴンゴン」。たまりません。

1.「れれれの連」のみなさまと私

私はマンガはあまり読みませんが,赤塚不二夫と手塚治は大好きです。
去年「れれれの連」が気に入って,今年こそ記念写真を撮ろうとたくらんでいました。
田舎のオッサンの希望を「こころよく?」かなえてくれた「れれれの連」の皆様ありがとう。
これからもよろしく。
2.「阿波小町?」のみなさまと家内

 私のまねをして,家内も記念写真を撮る相手を探していました。
一番性格の良さそうなグループに声をかけて撮ったのがこの写真です。
いやな顔一つせず応じてくれたお姉さんと子供達,ありがとう。
 子供達の中にはとても上手なのもいて感心します。
特に女の子の「色気」には参ります。
 「子供連」は「チルド連」にしたらどうかと、去年責任者らしき人に提案したのですが。
ぜひご検討お願いします。
 3.「にわか連」で踊る私

 数分の練習のあと,「にわか連」に参加させていただきました。
「醜い」体型ですんませんなあ。むしろ「類人猿」?
でも、本人はさして気にしていません。
いいじゃないの幸せならば。
「ア,ヤットサー,ヤットサー」。
ビデオ研究とたゆまぬ努力の結果,今は結構うまくなっています。
次回はみんなの注目を浴びることでしょう。
 4.「にわか連」で踊る家内

 真中のオレンジ色が家内です。何やこのプロポーションは????
かかる体型になったのは私と子供達のせいだそうです。
3人の子宝に恵まれて,なおかつ同年代の由美かおるのプロポーションを期待しては「バチ」が当たります。
 いまさら見合いをするわけでなし,「女の勲章」のこの体型でいいじゃないか。
「ア,ヤットサー,ヤットサー」。「ヨイヤサー」。
 5.きれいなお姉さんは好きですか

 踊り終わったあとは「見るアホウ」。
「きれいなお姉さんは好きですか?」
「好きに決まっとるやないか!」
中年男の悲しい「性」。思わずシャッターを切ってしまいました。
「ヤットナー,ヤットナー」「ア,ヤット,ヤット」

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